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無私の日本人 (2)

普遍の正義は,国家間の正義を融合できるものであり,その普遍の正義の判断基準とする「共通善」とは何かを考えてみます。

共通善は,一般的には個人や部分的な集団が追及する善(価値)ではなく,政治社会全体にとっての公共的な善(価値)として共同善ないし公共善,あるいは自由と平等の市民に共通に認められる最大の善(最大の共通利益)とされたり,多数者がともに実現をめざす共通ないし共同の目的とされたりしています。

では,普遍の正義として国家間の正義を融合する最大の共通利益とは何か,その利益は誰が判断するのか,善を利益と置き換えることに問題はないのか,この答えも簡単ではありません。

共通善を追及する生き方を「善き生」とする場合に,善き生は「人間固有の善」に発する生き方と考えているところですが,その「固有の善」は人類の長い歴史で培ってきた人間に備わる善性のことであり,人であれば共通の価値として共に認めることができるものです。

したがって,善き生とは,自然の摂理に基づき人間に備わる固有の善に発する生き方であり,この自然の摂理と固有の善を基として,地球に存する命の種と人類の現在および未来の共通の善(価値)を追及する生き方と考えます。

立志学舎は,人類が培ってきた固有の善を深めながら,其の人が,国家間の紛争や個々の難問に直面する場面で,「固有の善」と「自」と「分」を発揮して,国家の紛争や個々の難問を解決出来る「力」を養う学舎でありたいのです。   

平成29年1月31日

塾長 倉田榮喜