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H30.4.11 (2)

人は,地球に存在する万物の一つの種にしかすぎず,万物の生存は,自然の摂理である天理によって左右されています。人類が万物を制圧しようとすることは,天理に反し人類の存亡にもかかわることであって,人には自然の摂理(天理)を変更する自由はないことを胆に銘じる必要があります。

人の集団である国家の多くは,人は生まれながらに人間であるということで自然権なる自由を保障するとしますが,自然の摂理が人に自由を認めているわけではありません。人は,春に咲く桜を楽しめるのと同時に,地震,台風,大津波等大自然の変動のなかで生かされているにすぎず,大自然の摂理の下に命を繋いでいるという事実に抗することはできません。

国家において自由(思想,良心,学問,表現の自由等)は,個人の尊厳に基づく中核的権利とされ,この自由は統治権力からの自由として保障されますが,権力と法によって公共の福祉という名目や集団の義である「人道」によって制限される自由であり,人は,国家や人間の集団においても完全な自由はないのです。

さらに,「己」としても,自由は祖父母の血脈から受け継がれる「業」によって制約されていると受け止めざるを得ません。人は,誰もが平等に誕生するのではなく,夫々の「己」は清算すべき「業」を誕生時に背負っていて生まれた環境が負の環境であれば,人生で清算に努めなければならない負荷となります。

人の自由は,①自然の摂理,②集団の義,③血脈の業,に制限された自由であることを覚悟して生きる必要があるのです。

平成30年4月11日

塾長 倉田榮喜