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動物であるヒトは,最初は命の種を繋ぐ家族に収穫した食べ物を分け与え,次に大きく強い動物を狩るために仲間を組織して獲た獲物を分配することで人となり,その後次第に集団生活の経験の中で他者に譲ることを学習して人間になるのだと思っています。

個々の動物は所有と独占の本能を持っていますが,人は個々ではなく集団として纏まることで,他の動物との生存競争に勝ち残ることを覚え,そして人と人とが交わる集団生活のなかで,他者に対する「推譲」という行為が集団の秩序と生活を安定させるという智慧を持てるようになったのだと思うのです。

しかし,いまだ世界の現実における資本主義体制下では,制限なき自由競争の中で富の寡占と独占が進み,資本が無制限に利を求め続ける結果として貧富の差は漸進的に拡大し,日本の昭和の時代に多数の人が意識した「中産階級」の層は小さくなるばかりです。

地球の資源は有限であるのに,資本がさらに利子を求め続ければ,遂には,将来世代に残すべき地球の資源どころか人間の命の時間までも奪ってしまうことになるのだと危惧するところです。

二宮尊徳翁は一家の廃絶について,「夫れ孫右衛門の家、天明度の凶飢に当たり汝が家財に富めるを以て弥々救助の心なく,高価に粟をひさぎて独り利を専らにし、益々富をなせり。天之を悪み鬼神之を捨てむ。一家の廃絶この時に作れり。」と警告されます。

この言葉の意味をどのように考えるにしても,「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり」とは,長い歴史の検証結果として人間が得た智慧なのだと思っています。

平成30年7月2日

塾 長 倉田榮喜