Category: コラム

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隔年に一輪咲いていたアマリリスの花が,地震後に三輪咲きました。

熊本の地は少し復旧しつつありますが,皆さんの疲れは日毎に大きくなっているように思います。

M7.3の地震を経験した中高生の皆さん,この地震を経験として閉じ込めるのではなく,これからの人生に積極的に活かして欲しいと思います。

地震を必然とする「自然の摂理」とどのように向き合うのか思索して戴ければとも思いますが,まずは,絆深き家族の一員として,家族を守り足下の困難な現況を手助けすることが出来る心強き人になって戴きたいのです。

これからの人生をどう生きるかについては,漠然としている人が大多数と思いますが,ひたすらに学び,ひたすらに心身を鍛えて欲しいと思います。

皆さんの「自」が,一人一人どのような天分と素質を持ってこの世に生を受けたかは,ひたすらに学び,ひたすらに心身の鍛えを続けるなかで分かる日が来るのです。

この世に生を受けた全ての中高生の皆さんは,社会のなかで果たさなければならない「分」を持って生まれるのですから,当然にその「分」を果たすべき天分と才能が備わっています。

全ての中高生の皆さんに,自分の「自」を自覚し,自分の「分」に向き合って欲しいと願っています。

                        平成28年5月11日

                  塾長 倉田榮喜

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例年にない綺麗な紫陽花が咲きましたが,気象庁やNHKの地震警戒情報は,被災者の心を休ませることがありません。

行路ノ難はハ山ニモアラズ水ニシモアラズ、タダ人情反復の間ニ在リ(白居易)

人生行路は,自然の関わりだけではなく他者の関わり合いを避けることは出来ませんが,他者との関わり合いで反復する人情の頼りなさは世の常とされます。そして,自分の「自」を活かし自分の「分」を果たしていくには他者が持つ天分と資質は不可欠であって,何事も一人では出来ません。

故に,自分の「自」を活かし「分」を果たすためには,良き友や良き同志を見つけることは重要です。

一方,人生の悩みの大半は,平穏と言われた白居易の詩にさえあるように自然ではなく他者との関わりにあります。自分の分を果たしていくうえで,他者が不可欠だとしても他者の行路は他者のものであって,自分の都合の良いようにはならないのです。信頼する同志に裏切られることも覚悟しなくてはなりません。

その覚悟のうえで,自分の「自」と「分」を見極め続けながら,良き友良き同志に出会えるように心身の研鑽に勉め,良き友は何歳になっても諦めることなく探し続けて欲しいと思います。

肝心の時に同志に裏切られたとしても,捉われることなく立て直すことが出来る力量と,なお許せる度量を持てる人物になれるように,ひたすらに学び,ひたすらに心身を鍛えて欲しいと願っています。

                  平成28年5月31日

                    塾長 倉田榮喜

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森信三先生の修身教授録抄10に「志学とは」とがあり,同11に「大学の道」があります。

森信三先生は,論語の「吾れ十有五にして学に志す」を引かれ,「その人の真の人生はこの志学に始まると言って良いのです。」とされ,「ここに志学と言われたのは、いわゆる大学の道に志されたということであって、孔子は十五歳にして、すでに大学の道に志されたのであります。」と書かれています。

孔子が一五歳にして「大学の道」に志したという「大学」は,儒教の四書のひとつとして「修己治人の学」といわれ,「修己」とは人格と能力の両面を磨くこととされます。

「志を立てて、持って万事の根源となす」という幕末動乱期における吉田松陰の言葉がありますが,修己すなわち人格と能力の錬磨がなければ,志の為には手段も選ばずということにさえなりかねません。

立志学舎で皆さんに立てて戴く「志」は,皆さん一人一人が持つ「自」と「分」の中に立てる「志」のことで,政治,経済,研究,技芸,技術等,いわゆるこの世に必要な全ての職業の中に,自らの天職とすることが出来る「志」のことです。

故に,立志学舎の「立志」は,「志学」と共にある「立志」でなければならず,さらにその「志」は,単なる夢の話ではなく,皆さんが人生行路で必ず実現させると決定する「志」なのです。

                  平成28年6月11日

                     塾長 倉田榮喜

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躾と礼は,根本の基本事と自覚する必要があります。

躾は,親が子を人間社会及び集団の規範や慣習に合った行動が出来るように訓練するものですが,親が子を服従させるためのものではなく,皆さんが人として社会や集団を生きていく基本として身に付けなければならないものだからです。

岡田武彦先生が書かれた「ヒトは躾で人となる」という本があります。是非とも読んで学んで戴ければと思います。

儒教の小学では,八歳から掃除や挨拶の仕方,立居振舞等を学んだとされます。自分で出来ることは自分で行い,社会や集団のなかで他者に不愉快な思いを与えず人と人の間を円滑にするには,躾を身に付け礼を学ぶ事が必須なのです。

躾がまだ身に付いていないと思うのであれば,躾として必要とされることを自分で習得するしかありません。そして,礼は,社会や集団の行事等における動作や言葉,服装や道具を規定するものですが,本質的には争いを避けるために重要なのです。

躾も礼も身に付いていなければ,自分で習得するしかなく,躾と礼は自ら進んで習得することができます。

躾で必要とされることや礼を身に付けるためには,他者や読書から学ぶことができます。身近に範とすべき他者が見つからなければ,書物や過去に生きた先人から学ぶことができ,見本とすべき先人も読書によって発見することができるのです。

中高生の皆さん!躾と礼は,根本の基本事と自覚して学び続け,自分で身に付けて欲しいと切に願っています。

                  平成28年6月30日

                     塾長 倉田榮喜

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立志学舎は人生の生き方において,誠実であること・勤勉であることを学ぶ学舎です。誠実・勤勉の生き方を基盤として,分度・推穣の人生を生きられることを与に学ぶ学舎です。

「六分の運,四分の運」という言葉が司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」にありますが,人生で「運」が強いことはとても大切です。

地震や風水害等の自然の摂理の前に,防災の準備を万全に行ったとしてもどのように被災するかは運次第ともいえるのですが,人生行路も運が左右することは普通にあるのです。

自然や人生行路の中で,自分の身に起こったことは必然であり,必然的に起こった事を最善とする達観も必要です。しかし,努力を重ねて得られるという二~四分の運だけではなく,努力では得られない八~六分の運も味方に出来ないかと思うのです。

そこで,立志学舎は只管に学び続けながらも,人生の運が強くなることを追及する学舎でありたいと考えています。

積善の家には必ず余慶あり。積不善の家には必ず余殃あり(易経)

この言葉は,父祖代々の功罪までも問題にする点で納得し難い人も少なくないと思います。

しかし,先祖の罪を消して現世の運を強くし子孫にその功を譲るためには,「善を積む生き方」が必要なのだと思い切り,この言葉を受け入れて戴きたいと考えています。

そのうえで,善を積む生き方とはどのような生き方なのか,そもそも「善」とは何なのか,立志学舎で与に学べればと思います。

平成28年7月11日

                     塾長 倉田榮喜