Category: コラム

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人を殺すことは,人の命と種を否定する孝に反する積不善の悪行で,自然の摂理に反し集団の正義に反する行為で許されません。

その行為の対価は,集団での刑罰のみならず「積不善の家に余殃あり」との言葉があるとおり,子々孫々に渡って不運が続くという果によっても払い続けることになるのです。

一方,正当防衛としてやむなく人を殺したり,戦争で積極的に人を殺した場合は,人を殺しても問題はないのでしょうか。

国家という集団の規範である正当防衛が成立する場合,刑法の殺人罪は成立せず集団の正義に反しません。しかし,人を殺す行為が孝に反する積不善の悪行で自然の摂理に反する行為であることに変わりなく,なお積不善の余殃を覚悟する必要があります。

では,国権の発動たる戦争で人を殺した場合はどうか。この場合,国家の正義下では殺人であっても問題にされていません。

しかし,戦争は,戦争自体が人類のみならず地球上に存在するあらゆる種の命を大量に奪い人類及びその他の種を破壊し滅亡させることになる行為で,自然の摂理と孝に反する大悪業です。

戦争は,命と種を大量に破壊する残虐悲惨な自滅的行為であり,正義や大義を旗印とする戦争でも悪業ですので,個人の自律の問題として,戦争を防止するよう務める必要があるのです。

戦争を防止する為に戦争の歴史を学ぶ必要があり,同時に,自国の防衛を他国や傭兵等に依存して武力を放棄した国は,国として自律的に存続できるかどうかも考えて欲しいと思っています。

                 平成28年10月11日

                     塾長 倉田榮喜

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立志学舎では,自然の摂理と国家の正義と個人の自律について,皆さんと与に思考を深めたいと思っています。

自然の摂理は,万物に適用される自然界の根本規範であり,種の循環を繰り返しながら万物の和を創出する基本リズムです。

国が正義を旗印にして,自然界の根本規範と基本リズムに抗して自然界の万物の和を乱すことは,自然界に存する人類等の命の種を変化させ破滅させることにつながると危惧するところです。

国家や個人は,正義の名目で自然の摂理を変化させたり制御したりすることはできない!と明観する必要があります。

岡田武彦先生は,西洋的制物論に対して東洋的崇物論を展開されました。先生の崇物論を是非とも学んで欲しいと思います。

自然の摂理に国家の正義で反することはできず,国家の正義は人の集団内正義にすぎないことを自覚する必要があるのです。

国や国民の幸福の最大化を計ることを目的とする場合でも,その目的のために自然の摂理を制御してはならないのです。

自然の摂理は,人類や国家の利益を中心とするリズムで循環しているわけではないからです。

では,国家の正義と個人の自律とが衝突する場合に,個人の自律で国の正義に抗することを是とすることがあるでしょうか。

国家の正義が自然の摂理に反し,個人の自律が自然の摂理に適っている場合に,国家の正義に抗することを是とすることができるかどうか,皆さんに学びながら考えて欲しいと思っています。

                 平成28年10月31日

                     塾長 倉田榮喜

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死刑の執行を国の正義と言えるか,皆さんはどう考えますか。

最高裁判所は,昭和23年に「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。」としながら,憲法は「公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想している。」として,死刑制度を合憲とし,死刑は現在も執行されています。

個人の尊厳を憲法の中核価値とし,「一人の生命は、全地球より重い」としながら,国が人を殺すことはどうして是なのか,死刑の執行を正義と考えることができるのか,という問題です。

国家は統治の究極の力として武力や暴力を独占し,日本でも豊臣秀吉の「刀狩り」や明治政府の「帯刀禁止令」以降,個人や私的集団による「武力等の力の行使」は禁止され,現在,社会秩序の為に必要な力の行使は,国だけが持つという体制になっています。

ヒトが人として支えあう集団の中で,個々の幸福に反し集団の秩序を崩壊させる行為の応分の対価として,死刑執行を集団の正義と考えることは無理ではないと考えることは可能です。

しかし,命の種を断つ殺人行為が自然の摂理に反する以上は,これを是とする集団の正義は自然の摂理に反するのではないか。

そして,国家の正義が自然の摂理の範疇にあるのであれば,「国であれ死刑は認められない」という結論になると思うのです。

行為が著しく個々の幸福に反し国家の秩序を崩壊させるものであれば,その行為の対価と予防措置は死刑ではなく終身隔離の制度が検討されるべきだと考えています。

                 平成28年11月11日

                     塾長 倉田榮喜

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立志学舎では,正義の意味を考えて,皆さんが其々の自律を確立されることを目標の一つとしたいと思っています。

正義の意味について,まず正義の「正」ですが正とは支配にあたるものをいい,征服者がその地から貢納を徴する「征」,強制を加えて治める「制」に通じています。すなわち正は,支配者,征服者,強制者のもので,正には支配者の意思が含まれるのです。

正義の「義」は,「その生体になんらの欠陥もなく神意にかなうこと」であり,神意に適っている法則・道理を意味するとされています。

故に,正義は,第1に支配を正当化する意味を持ち,第2にその内容が神意に適う法則や道理であることが求められるのです。

正義は,支配者が被支配者を治めて平らかにするためのもので,神意や道理に適うことが要求されていても,本質的には集団における統治者の支配を正当化するものなのです。

「勝てば官軍」の言葉があったように,正義は,暴力や軍隊で支配した統治を正当化する旗印と言っても過言ではないのです。

そして,自律は,「自分の行動を自分の立てた規律に従って規制すること」「自己の欲望や他者の命令に依存せず,自らの意思で客観的な道徳法則を立ててこれに従うこと」とされます。

自律は,伝統的・道徳的・宗教的信念に基づいて,個人が自らを律する客観規範です。個人の自律が確立して,国家の正義の中で個人の自律が尊重されるほど統治は安定するといえるのです。

平成28年11月30日

塾長 倉田榮喜

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これからの「正義」の話をしよう

統治者の支配を正当化する正義は,どのような内容を持てば普遍的な正義となり,統治は安定したものになるのでしょうか。

そこで,「正義とは何か」について,正義の「判断基準」を考えてみたいと思います。

正義についての3つの考え方を比較してみます。①功利性や福利を最大限にすること(最大多数の最大幸福)②選択の自由と人権の尊重(自由市場主義と個人の尊厳)③美徳の涵養と共通善(美徳を育み,善き生に基づいて判断すること)の3つです。

この3つについて,①を統治者的正義②を人権的正義③を共同体的正義と位置付けることができるとすれば,①は個人の尊厳に薄く,②は集団が持つべき相互扶助の本質に薄いように思えます。

①の功利性や福利による幸福を統治者が判断するとすれば,少数者の幸福と一致しないことがあり,②の個人の尊厳と市場主義はヒトが人となり相互に助け合うという集団が持つ本質的機能を損なうことがあると思うからです。

そこで,①と②の薄さを補う③の立場を基本としながら考えられる正義は,集団が持つべき相互扶助を前提として歴史と伝統を踏まえた個人の客観的自律が尊重される正義です。

①と②の正義を同時代に生きる人々の間の水平的正義,③の正義を過去から現在までの歴史・伝統・自律を含んだ垂直・水平的正義としこれを縦横の正義と考えるところです。

皆さんは,正義とその判断基準をどのように考えていますか,立志学舎で与に学ぶことができることを願っています。

平成28年12月12日

塾長 倉田榮喜