Category: コラム

最終更新:

正議論 (2)

普遍の正義はどのような正義なのか,国家の正義を普遍の正義と言うことができるのかどうかを考えてみます。

第一に,普遍の正義は,自然の摂理に収まることを明理とし,自然の摂理には反しない正義です。

自然の摂理と普遍の正義の関係は,自然の摂理を大円とした場合に,普遍の正義は,自然の摂理の大円の範疇に収まるものでなくてはならないのです。

第二に,普遍の正義と個人の自律の関係です。普遍の正義は,個人の客観的自律を包含しこれを融合する正義です。

国家の正義が自然の摂理に収まらず,個人の客観的自律が国家の正義に含まれないと,国の統治は不安定になります。

国家の正義が個人の客観的自律を含むとすれば,国家の正義は,その国の歴史・伝統・文化をふまえた垂直・水平的正義にならざるを得ないのです。

その場合,国家毎に歴史・伝統・宗教・文化が異なれば,国家の正義は国毎に異なるのが当然ということになり,その結果,国毎に異なる正義が存在することになりますので,国毎に異なる国家の正義を普遍の正義と呼ぶことはできなくなります。

国家と国家の正義が国毎に異なり,これに国益の問題が絡めば,国家間の正義と正義が衝突して国際紛争が生じます。

では,国家と国家の正義の衝突をどのように解決したらよいのか,国家と国家の正義を融合する普遍の正義を求めることで解決できるのかどうか,皆さんはどう考えますか。

皆さんの明けての年が良い年となり,そして,立志学舎でお会いできることをお待ちしています。

平成28年12月26日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

戦争まで

国家と国家の正義が衝突して紛争になった場合,当事国は普遍の正義を共通に認識して紛争の解として認めるのか,普遍の正義を「美徳の涵養と共通善」で判断することに同意するのか,普遍の正義を実効的に担保する統一的な力は存在するのか,問題の答えは簡単ではありません。

普遍の正義の判断基準である「美徳の涵養と共通善」を「美徳を育み善き生」としたうえで,地球の命の種と人類の未来を含めた地球全体の共通の価値を見出する必要があると思いますが,そのためには,「自然の摂理」と「固有の善」を判断の基に置くべきなのではないかと考えます。

普遍の正義は自然の摂理の下にあり,普遍の正義に融合される個人の客観的自律はヒトが人としてが培ってきた固有の善に基づくものですから,人本来の固有の善は国が異なっても人間である限りは同じと考えるからです。

紛争当事国が自然の摂理と人間固有の善を共通に認識することは困難なことではなく,これを共通に認識することで普遍の正義に基づく解決策は任意実行の可能性が高まると思うのです。

普遍の正義の判断基準である「美徳の涵養と共通善」とは「美徳を育み善き生」のことであり,「善き生」とは「自然の摂理」と「固有の善」を基にして,地球に存在する命の種と人類の共通の価値を目的として追求する事と考えます。

新しい年です!皆さんは普遍の正義についてどう考えますか。

                  平成29年1月11日

                      塾長 倉田榮喜

最終更新:

無私の日本人 (2)

普遍の正義は,国家間の正義を融合できるものであり,その普遍の正義の判断基準とする「共通善」とは何かを考えてみます。

共通善は,一般的には個人や部分的な集団が追及する善(価値)ではなく,政治社会全体にとっての公共的な善(価値)として共同善ないし公共善,あるいは自由と平等の市民に共通に認められる最大の善(最大の共通利益)とされたり,多数者がともに実現をめざす共通ないし共同の目的とされたりしています。

では,普遍の正義として国家間の正義を融合する最大の共通利益とは何か,その利益は誰が判断するのか,善を利益と置き換えることに問題はないのか,この答えも簡単ではありません。

共通善を追及する生き方を「善き生」とする場合に,善き生は「人間固有の善」に発する生き方と考えているところですが,その「固有の善」は人類の長い歴史で培ってきた人間に備わる善性のことであり,人であれば共通の価値として共に認めることができるものです。

したがって,善き生とは,自然の摂理に基づき人間に備わる固有の善に発する生き方であり,この自然の摂理と固有の善を基として,地球に存する命の種と人類の現在および未来の共通の善(価値)を追及する生き方と考えます。

立志学舎は,人類が培ってきた固有の善を深めながら,其の人が,国家間の紛争や個々の難問に直面する場面で,「固有の善」と「自」と「分」を発揮して,国家の紛争や個々の難問を解決出来る「力」を養う学舎でありたいのです。   

平成29年1月31日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

餓死した英霊たち (2)

個人の尊厳が憲法で中核的価値とされることは,国家という集団の権力を抑制するために非常に重要な意義を持ちます。しかし,個人の尊厳という価値は,実際には自然界や国家の中で最大の価値となっていないのです。

最高裁が示した「一人の命は地球より重い」との語は名目にすぎず,国権の発動による戦争は人の命を酷く簡単に奪うのです。

国家が正義とする「公共の福祉」は権力者や多数者によるものであって,公共の福祉という名目で個人の自由や平等が容易く侵害される事は,現実や過去の歴史から学ぶことができます。

さらに,個々の個人は,自然の摂理や大孝というべき命の縛りの中で生きるのですから,人は自由ではなく不自由こそが原則と覚悟したほうが良いのですが,それでも人は集団において各々の「自」と「分」を果たすことが必要なのだと思うのです。

ヒトが人として相互に支え合う集団に帰属している以上は,個人が集団の正義に拘束されるのは前提であって,個人が完全な自由を得たいのであれば集団を離れるしかないのですが,集団を離れて生きることは自滅につながります。

では,帰属する集団の下で完全な自由と完全な平等はないと覚悟したうえで,自分の自と分を発揮してより自由でより平等な社会集団を形成するためはどうしたらよいのか。

立志学舎は,「国家の正義下にある個人の尊厳」という名目ではなく,「自然の摂理と万物の調和」を指標とする「自律他尊の生き方」を学ぶ学舎でありたいと考えています。

                  平成29年2月10日

                     塾長 倉田榮喜

最終更新:

二宮尊徳一日一語

二宮尊徳翁の一日一言(寺田一清編)1月26日の「唯我独尊」の項には次のように書かれています。

      宇宙万物は悉く唯我独尊なり。

        釈迦も唯我独尊なり。

    孔子も唯我独尊なり。

        我も唯我独尊なり。

    禽獣虫魚草木もみな唯我独尊なり。

これには,「万物は独立自尊にして、かつ相互扶助であり、個々自主にして相関連帯である」との注が付されています。万物の個命(ひとつひとつの命)は,存在している自体を尊ぶ必要があり自体の存在を尊ぶことなくして,万物の一種である人も自分の自を発揮しその分を果たすことはできないのです。

この「自らを尊ぶ」について,皆さんには我欲に基づく自己中心的な行動を認めるという意味ではなく,自らに客観的自律を課すことであると考えて戴きたいと思っています。

人は,自然界で万物の一種として相関連帯ともいうべき相互扶助の中で生きるのですから,自然界で唯一の自命(唯我)を尊ぶ(独尊)のと同じように,他命も尊ぶ(他尊)必要があるのが自然ですし,自然の中で自命を生かし他命も尊ぶことで自分の自を活かしその分を果たしてこそ「唯我独尊」なのだと思うところです。

故に,皆さんに学んで戴きたい自律他尊の生き方は,相関連帯と相互扶助という万物共生の自然界で生きる基本といえるのです。

平成29年2月28日

塾長 倉田榮喜