Category: コラム

最終更新:

H29.10.11

人生を生きる上で必要な奉仕は,社会と他者と共に自己をも資する行為で,相互扶助・相関連帯の人の集団には不可欠な行動です。

ところで,貴方が自分の自を活かしその分を誠実に勤勉に果たすことは,社会と他者に対する奉仕の一歩でもありますが,それは貴方に与えられた使命とも言えるのです。

森信三先生は「賜生」という言葉を残されていますが,貴方が自然界に生を受け,現世に生を賜ったのは人の世で果たすべき使命を貴方が与えられたからにほかならないのです。

貴方はどうして両親の子としてその環境の下に生まれたのか,自ら誓願して両親の下に生まれたという考え方を含めても,今いる環境で人の世に生を受けたのは,その環境の下で分に応じた使命を果たすために命を賜ったと思うのです。

では,貴方が賜った命はこの世でどんな使命を与えられたのか!

この大事がわかるためには,貴方が今いる環境の中で勉学と鍛錬に努めて,自分の個性である「自」と果たすべき役割である「分」を求め続ける強い「思い」が必用です。

貴方がまず受け入れる必要があるのは今いる環境であり,実行すべきはその環境の中で自分の自と分を如何に発揮するかという日々の錬磨であり,自身の人格をどう形成するかという強い思いを持って勉学と鍛錬に努めるほかはないのです。

自分が生まれた環境を嘆かず,他者の才能を羨まず,自身の環境下で日々工夫して勉学と鍛錬に勉めて欲しいと願っています。

平成29年10月11日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

H29.10.31

集団を構成する全員が賜生を自覚して,集団と他者への奉仕を使命として人生を生きるのであれば,「悪」とか「我欲」とかいう行為は少なくなると思いますが,現実は悪と呼ぶべき行為が跋扈し,我欲のために人生の総決算である臨終を悲惨なものにしてしまうことは,世の中で普通にみられることです。

ではどうして,社会に悪が跋扈し,人に我欲が有るのか!

ヒトは躾で人になり礼を身に付けることによって集団で生きる摩擦を少なくし,志を持つことによって社会の中で分としての奉仕を果たすことができるようになります。

しかし,ヒトは躾によって人になってもなお動物の本性を持ち,躾も礼も身に付けなければ野生動物のままです。その動物には他を食い殺してでも生き残ろうとする生命保持の本能があり,この本能は自らが生き残るためには他を傷つけることも躊躇しない性質を持つと考えられます。

すなわち,悪とは,自らが生き残るためには他をも犠牲にするという動物的本能を根源とし,我欲もその根源の本能から生じるのだとすれば,悪と我欲の存在を否定することはできないのです。

一方で,動物は,種を維持し子孫を次の世代に残すために子を育て慈しむという本能を有しますが,この子を育て慈しむという動物的本能が善の根源だと考えられるのです。

平成29年10月31日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

H29.11.10

悪は,自らが生き残るために他をも犠牲にするという動物的本能を根源とし,善は,種を維持するために子を慈しみ育てるという動物的本能が根源とすれば,動物である人は,根源的に悪性も善性も本性として備えていることになります。

人は,自然や集団の中で生き残るために他者を攻撃し犠牲にすることを厭わない悪性と共に,命の種を次世代に繋ぐために子を守り育てると共に他者も慈しむという善性も備えていると考えられます。

人は,動物の本能を持つが故に時と場合によって,悪性に基づいて行動することも善性に基づいて行動することもどちらも有るのであって,人間は,悪性と善性との間を揺れ動きながら自然と集団の中で生きているのです。

そのうえで,ヒトが躾で人となり,社会で礼を身に付けて集団で生きる摩擦を少なくし,分に応じた志を掲げることによって,人間は,動物としての悪性が抑えられ善性に基づく行動が勝る生き方ができるようになるのだと考えるところです。

貴方が自然や社会で悪性に基づいて人生を生きるとすれば,その総決算は子々孫々に負の連鎖をもたらし,その臨終は無残・残酷なものになるのが通常だと考える必要があります。

故に,人生の臨終における総決算は,悪行よりも善行が多く積まれていることが必用なのだと思うのです。

皆さんには,二度とない人生の一日一日において,善行と悪行の勝敗を記録に留める日々であって欲しいと願っています。

平成29年11月10日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

H29.11.30

動物である人は,本性として善性と悪性を持ち,時と場合によって悪性を発揮したり善性を発揮したりするのです。

人は「躾」が身になく「礼」を学ばず「志」も無かったら,本性である悪性のままに行動することを躊躇しませんが,一般的には善性と悪性の間を揺れ動きながら,人間として集団で生きる摩擦にも苦しみながら人生を死に向かって歩んでいるのです。

また,人間は,その歩みの中で他者の悪事に苦しむと同時に,自身が持つ悪性にも向き合いながら人生を生きているのです。

皆さんには人生の総決算である臨終時に悪事よりも善事が勝っていることを目指して欲しく,皆さんの人生の総決算における善事と悪事の±は子孫に引き継がれると覚悟して欲しいのです。

大分県の日田は,徳川体制時代において長崎に入った海外の文化や技能を江戸に伝えた要衝の天領地で,ここに咸宜園(ことごとく皆宜し)という有名な私塾がありました。

この咸宜園を主催した広瀬淡窓先生は,人生の生き方として日々の行いを「万善簿」として記録して積善に挑戦されました。

「広瀬淡窓と咸宜園」という本には,先生が「善」の白丸「○」とされたのは,「①財を捨てて人を利す~⑩生物を憐れむ」の10項目,「悪」として黒丸「●」とされたのは,「①過食~⑩卵を潰す」の10項目が紹介してあります。

皆さんも,人生の臨終においての決算は善事が悪事に勝るように,日々に積善に挑戦して欲しいと願っています。

平成29年11月30日

塾長 倉田榮喜

最終更新:

H29.11.30

「積善の家に余慶あり,積不善の家に余殃あり」の故事成語は簡単に受け入れられるものとは思いませんが,「人生における運を強くし,臨終の総決算を幸せで人に惜しまれるものにする」ために受け入れて欲しいと思う言霊です。

広瀬淡窓先生は,43歳のとき「万善簿」に再挑戦し,73歳まで一日も休まずに積善の努力を続けられました。

先生の万善簿を詳細に分析した中島市三郎氏(広瀬淡窓と咸宜園37頁)によれば,先生は,善として①財を捨てて人を利す②人に善を勧める③人に食を贈る④人のために周旋する⑤懇切丁寧に教える⑥骨肉の情を大切にする⑦善を念じる⑧乞食に施す⑨情のある交際をする⑩生物を憐れむ,を挙げ,悪として①過食②疾病③怒心④怒言⑤殺生⑥慳財(吝嗇)⑦猫を打つ⑧蛍を捕る⑨蛤を煮る⑩卵を潰す,を挙げられていたそうです。

悪とされた①や②は,先生が若い頃から疾病に苦しまれた事も影響していると思いますが,皆さんも,例えば,自分が決めた「律」を守れた一日であるかどうか(勤か怠か),自分の悪性に勝ち他者や生物の命を敬し癒したか蔑して傷つけたか(敬か蔑か)等を基準にするなど善事と悪事の自身の判断基準を創って,新しい年には強い思いを持ち日々に積善に挑戦して欲しいと思うのです。

一つ一つの善事と悪事の点数は,+10点もあれば-1点もあると思いますが,生涯において淡窓先生のように+一万点の善を達成できたなら,積善道の臨終は幸せで他者にも惜しまれ,その余慶は子孫をも潤すことになるのだと確信して欲しいのです。

平成29年12月11日

塾長 倉田榮喜