Archive: 2016.06

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躾と礼は,根本の基本事と自覚する必要があります。

躾は,親が子を人間社会及び集団の規範や慣習に合った行動が出来るように訓練するものですが,親が子を服従させるためのものではなく,皆さんが人として社会や集団を生きていく基本として身に付けなければならないものだからです。

岡田武彦先生が書かれた「ヒトは躾で人となる」という本があります。是非とも読んで学んで戴ければと思います。

儒教の小学では,八歳から掃除や挨拶の仕方,立居振舞等を学んだとされます。自分で出来ることは自分で行い,社会や集団のなかで他者に不愉快な思いを与えず人と人の間を円滑にするには,躾を身に付け礼を学ぶ事が必須なのです。

躾がまだ身に付いていないと思うのであれば,躾として必要とされることを自分で習得するしかありません。そして,礼は,社会や集団の行事等における動作や言葉,服装や道具を規定するものですが,本質的には争いを避けるために重要なのです。

躾も礼も身に付いていなければ,自分で習得するしかなく,躾と礼は自ら進んで習得することができます。

躾で必要とされることや礼を身に付けるためには,他者や読書から学ぶことができます。身近に範とすべき他者が見つからなければ,書物や過去に生きた先人から学ぶことができ,見本とすべき先人も読書によって発見することができるのです。

中高生の皆さん!躾と礼は,根本の基本事と自覚して学び続け,自分で身に付けて欲しいと切に願っています。

                  平成28年6月30日

                     塾長 倉田榮喜

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森信三先生の修身教授録抄10に「志学とは」とがあり,同11に「大学の道」があります。

森信三先生は,論語の「吾れ十有五にして学に志す」を引かれ,「その人の真の人生はこの志学に始まると言って良いのです。」とされ,「ここに志学と言われたのは、いわゆる大学の道に志されたということであって、孔子は十五歳にして、すでに大学の道に志されたのであります。」と書かれています。

孔子が一五歳にして「大学の道」に志したという「大学」は,儒教の四書のひとつとして「修己治人の学」といわれ,「修己」とは人格と能力の両面を磨くこととされます。

「志を立てて、持って万事の根源となす」という幕末動乱期における吉田松陰の言葉がありますが,修己すなわち人格と能力の錬磨がなければ,志の為には手段も選ばずということにさえなりかねません。

立志学舎で皆さんに立てて戴く「志」は,皆さん一人一人が持つ「自」と「分」の中に立てる「志」のことで,政治,経済,研究,技芸,技術等,いわゆるこの世に必要な全ての職業の中に,自らの天職とすることが出来る「志」のことです。

故に,立志学舎の「立志」は,「志学」と共にある「立志」でなければならず,さらにその「志」は,単なる夢の話ではなく,皆さんが人生行路で必ず実現させると決定する「志」なのです。

                  平成28年6月11日

                     塾長 倉田榮喜