Archive: 2016.11

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立志学舎では,正義の意味を考えて,皆さんが其々の自律を確立されることを目標の一つとしたいと思っています。

正義の意味について,まず正義の「正」ですが正とは支配にあたるものをいい,征服者がその地から貢納を徴する「征」,強制を加えて治める「制」に通じています。すなわち正は,支配者,征服者,強制者のもので,正には支配者の意思が含まれるのです。

正義の「義」は,「その生体になんらの欠陥もなく神意にかなうこと」であり,神意に適っている法則・道理を意味するとされています。

故に,正義は,第1に支配を正当化する意味を持ち,第2にその内容が神意に適う法則や道理であることが求められるのです。

正義は,支配者が被支配者を治めて平らかにするためのもので,神意や道理に適うことが要求されていても,本質的には集団における統治者の支配を正当化するものなのです。

「勝てば官軍」の言葉があったように,正義は,暴力や軍隊で支配した統治を正当化する旗印と言っても過言ではないのです。

そして,自律は,「自分の行動を自分の立てた規律に従って規制すること」「自己の欲望や他者の命令に依存せず,自らの意思で客観的な道徳法則を立ててこれに従うこと」とされます。

自律は,伝統的・道徳的・宗教的信念に基づいて,個人が自らを律する客観規範です。個人の自律が確立して,国家の正義の中で個人の自律が尊重されるほど統治は安定するといえるのです。

平成28年11月30日

塾長 倉田榮喜

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死刑の執行を国の正義と言えるか,皆さんはどう考えますか。

最高裁判所は,昭和23年に「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。」としながら,憲法は「公共の福祉という基本原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想している。」として,死刑制度を合憲とし,死刑は現在も執行されています。

個人の尊厳を憲法の中核価値とし,「一人の生命は、全地球より重い」としながら,国が人を殺すことはどうして是なのか,死刑の執行を正義と考えることができるのか,という問題です。

国家は統治の究極の力として武力や暴力を独占し,日本でも豊臣秀吉の「刀狩り」や明治政府の「帯刀禁止令」以降,個人や私的集団による「武力等の力の行使」は禁止され,現在,社会秩序の為に必要な力の行使は,国だけが持つという体制になっています。

ヒトが人として支えあう集団の中で,個々の幸福に反し集団の秩序を崩壊させる行為の応分の対価として,死刑執行を集団の正義と考えることは無理ではないと考えることは可能です。

しかし,命の種を断つ殺人行為が自然の摂理に反する以上は,これを是とする集団の正義は自然の摂理に反するのではないか。

そして,国家の正義が自然の摂理の範疇にあるのであれば,「国であれ死刑は認められない」という結論になると思うのです。

行為が著しく個々の幸福に反し国家の秩序を崩壊させるものであれば,その行為の対価と予防措置は死刑ではなく終身隔離の制度が検討されるべきだと考えています。

                 平成28年11月11日

                     塾長 倉田榮喜