Archive: 2017.01

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無私の日本人 (2)

普遍の正義は,国家間の正義を融合できるものであり,その普遍の正義の判断基準とする「共通善」とは何かを考えてみます。

共通善は,一般的には個人や部分的な集団が追及する善(価値)ではなく,政治社会全体にとっての公共的な善(価値)として共同善ないし公共善,あるいは自由と平等の市民に共通に認められる最大の善(最大の共通利益)とされたり,多数者がともに実現をめざす共通ないし共同の目的とされたりしています。

では,普遍の正義として国家間の正義を融合する最大の共通利益とは何か,その利益は誰が判断するのか,善を利益と置き換えることに問題はないのか,この答えも簡単ではありません。

共通善を追及する生き方を「善き生」とする場合に,善き生は「人間固有の善」に発する生き方と考えているところですが,その「固有の善」は人類の長い歴史で培ってきた人間に備わる善性のことであり,人であれば共通の価値として共に認めることができるものです。

したがって,善き生とは,自然の摂理に基づき人間に備わる固有の善に発する生き方であり,この自然の摂理と固有の善を基として,地球に存する命の種と人類の現在および未来の共通の善(価値)を追及する生き方と考えます。

立志学舎は,人類が培ってきた固有の善を深めながら,其の人が,国家間の紛争や個々の難問に直面する場面で,「固有の善」と「自」と「分」を発揮して,国家の紛争や個々の難問を解決出来る「力」を養う学舎でありたいのです。   

平成29年1月31日

塾長 倉田榮喜

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戦争まで

国家と国家の正義が衝突して紛争になった場合,当事国は普遍の正義を共通に認識して紛争の解として認めるのか,普遍の正義を「美徳の涵養と共通善」で判断することに同意するのか,普遍の正義を実効的に担保する統一的な力は存在するのか,問題の答えは簡単ではありません。

普遍の正義の判断基準である「美徳の涵養と共通善」を「美徳を育み善き生」としたうえで,地球の命の種と人類の未来を含めた地球全体の共通の価値を見出する必要があると思いますが,そのためには,「自然の摂理」と「固有の善」を判断の基に置くべきなのではないかと考えます。

普遍の正義は自然の摂理の下にあり,普遍の正義に融合される個人の客観的自律はヒトが人としてが培ってきた固有の善に基づくものですから,人本来の固有の善は国が異なっても人間である限りは同じと考えるからです。

紛争当事国が自然の摂理と人間固有の善を共通に認識することは困難なことではなく,これを共通に認識することで普遍の正義に基づく解決策は任意実行の可能性が高まると思うのです。

普遍の正義の判断基準である「美徳の涵養と共通善」とは「美徳を育み善き生」のことであり,「善き生」とは「自然の摂理」と「固有の善」を基にして,地球に存在する命の種と人類の共通の価値を目的として追求する事と考えます。

新しい年です!皆さんは普遍の正義についてどう考えますか。

                  平成29年1月11日

                      塾長 倉田榮喜