Archive: 2017.02

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二宮尊徳一日一語

二宮尊徳翁の一日一言(寺田一清編)1月26日の「唯我独尊」の項には次のように書かれています。

      宇宙万物は悉く唯我独尊なり。

        釈迦も唯我独尊なり。

    孔子も唯我独尊なり。

        我も唯我独尊なり。

    禽獣虫魚草木もみな唯我独尊なり。

これには,「万物は独立自尊にして、かつ相互扶助であり、個々自主にして相関連帯である」との注が付されています。万物の個命(ひとつひとつの命)は,存在している自体を尊ぶ必要があり自体の存在を尊ぶことなくして,万物の一種である人も自分の自を発揮しその分を果たすことはできないのです。

この「自らを尊ぶ」について,皆さんには我欲に基づく自己中心的な行動を認めるという意味ではなく,自らに客観的自律を課すことであると考えて戴きたいと思っています。

人は,自然界で万物の一種として相関連帯ともいうべき相互扶助の中で生きるのですから,自然界で唯一の自命(唯我)を尊ぶ(独尊)のと同じように,他命も尊ぶ(他尊)必要があるのが自然ですし,自然の中で自命を生かし他命も尊ぶことで自分の自を活かしその分を果たしてこそ「唯我独尊」なのだと思うところです。

故に,皆さんに学んで戴きたい自律他尊の生き方は,相関連帯と相互扶助という万物共生の自然界で生きる基本といえるのです。

平成29年2月28日

塾長 倉田榮喜

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餓死した英霊たち (2)

個人の尊厳が憲法で中核的価値とされることは,国家という集団の権力を抑制するために非常に重要な意義を持ちます。しかし,個人の尊厳という価値は,実際には自然界や国家の中で最大の価値となっていないのです。

最高裁が示した「一人の命は地球より重い」との語は名目にすぎず,国権の発動による戦争は人の命を酷く簡単に奪うのです。

国家が正義とする「公共の福祉」は権力者や多数者によるものであって,公共の福祉という名目で個人の自由や平等が容易く侵害される事は,現実や過去の歴史から学ぶことができます。

さらに,個々の個人は,自然の摂理や大孝というべき命の縛りの中で生きるのですから,人は自由ではなく不自由こそが原則と覚悟したほうが良いのですが,それでも人は集団において各々の「自」と「分」を果たすことが必要なのだと思うのです。

ヒトが人として相互に支え合う集団に帰属している以上は,個人が集団の正義に拘束されるのは前提であって,個人が完全な自由を得たいのであれば集団を離れるしかないのですが,集団を離れて生きることは自滅につながります。

では,帰属する集団の下で完全な自由と完全な平等はないと覚悟したうえで,自分の自と分を発揮してより自由でより平等な社会集団を形成するためはどうしたらよいのか。

立志学舎は,「国家の正義下にある個人の尊厳」という名目ではなく,「自然の摂理と万物の調和」を指標とする「自律他尊の生き方」を学ぶ学舎でありたいと考えています。

                  平成29年2月10日

                     塾長 倉田榮喜