Archive: 2017.03

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H29.3.31 (2)

善き生とは,自然の摂理に基づき個々の人間に備わるべき固有の善に発する生き方で,この自然の摂理と固有の善を基として,地球に存する命の種と人類の現在および未来の共通の価値を追及し,その価値を少しでも実現させる生き方だと考えます。

では,そもそも「固有の善」とは何か。

人間の本性は性善なのか性悪なのかという問題とも関係しますが,固有の善は,人類の相互扶助という集団形成の長い経緯のなかで培われてきたもので,人の行いはこうあるべきだと普遍的に認めることができる共通の価値を個人として有することと考えているところです。

その固有の善は,人として生まれれば誰もが自然に備えているものではなく,根源の種の生命がヒトなりヒトは集団のかで人となるように,集団形成の長い経緯のなかで人はどのような価値を共通にすれば,個の生存と集団の存続が保たれるかという思考と経験を基に次第に培われてきたものだと思います。

しかし,個々人は,簡単には我性(自己中心性)を克服することはできず,我性から発する我欲は自分第一を主張して他者と衝突して紛争になり,個命と集団の存続さえ危うくすることがありますので,ヒトが人となり人間となって個命と集団を存続していくためには,長年の間に培われてきた固有の善を日々に自覚して我欲を抑える自律他尊の生き方を学ぶことが必要になるのです。

立志学舎は,我性から発する我欲を善き生として活かしていくことができる固有の善を学び身につける学舎でありたいのです。

平成29年3月31日

塾長 倉田榮喜

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郷土読本大塚退野先生

ヒトは躾と礼を身に付けることによって人となり,集団の中で生きる人間になりますが,人間となっても我性(自己中心性)に苦しみ悩みながら人生を生きるのは普通のことです。

人は性欲と物欲と名誉欲を持っていますが,これらの欲を我性(自己中心性)に基づいて実現しようとすれば,集団の本質である相互扶助に反することが多くなりますので,人は躾や礼を身に付けさらに客観的自律を持つことが必要になるのです。

自律なき性欲は人を破滅させ,制限なき物欲は他者の物も自分の物とする行為(窃取や搾取)となり,物欲や名誉欲は他者を妬む心(嫉妬)を生じさせ,我性は人を苦しめる原罪でもあるのです。

そこで,人が自然界と集団のなかで生きる以上は,我性(自己中心性)から発する我欲や感情を常に自覚して,自らを律する客観的自律を持ち続ける知性が必要になるのです。

また,自己と他者との関わり方では,他者はたとえどのような他者であれ,「自」の成長につながる他者であり,「分」を発揮するために必要な他者なのだと悟って戴きたいと思うのです。

立志学舎に集まる其の人は,我性に基づく欲望を律する客観的自律を自分で作って保持する知性を習得し,自分の自と分を発揮するために他者を尊ぶ人になって戴きたいと願うところです。

善き生とは,欲望や我性(自己中心性)と常に向き合う自律他尊の生き方が根底にある生き方と考えますので,立志学舎は,其の人が自と分を発揮するために,自らを客観的に律し他者を尊ぶ生き方を学ぶ学舎でありたいと願っています。

                  平成29年3月10日

                     塾長 倉田榮喜