二宮尊徳翁は,天理自然の道と人道作為の道を明確に区別して,自然の道は万古廃れず,人作の道は怠れば廃ると説かれます。
「それ自然の道は、万古廃れず、作為の道は怠れば廃る。しかるにその人作の道を誤りて、天理自然の道と思うが故に、願うことならず、思うことかなわず、終に我が世は憂世なりなどというに至る。それ人道は荒々たる原野のうち、土地肥饒にして艸木茂生するところを田畑となし、これには草の生ぜぬようにと願い、土地瘠薄にして、艸木繁茂せざる地を秣場となしてここには艸の繁茂せんことをねがうがごとし。これをもって人道は作為の道にして、自然の道にあらず」と遺されています。
庭の落ち葉を自然の理として放置するのではなく一日一回は掻き清め,田畑の草は作物の生育に支障なく除去することが必要であり,天理に即しながらこれに惑わされず,天理に随順するのではなくこれに積極的に対応する能動作為の道を人道とされたのです。
人生における「生」「老」「病」「死」の四苦は,生きる為の悩みとして受け入れて,これに能動的積極的に向き合って,自分に与えられた天分資質を発揮する試練とし,自身の成長の発条とする覚悟を持って乗り越えることが必要です。皆さんが持つ性欲・物欲・顕欲もこれに随順するのでなく,自分が有する天分資質を有効に発揮する為のエネルギー源として,これを自律的に過つことなく有用に活すことが重要です。
令和2年1月31日
塾長 倉田榮喜