Archive: 2020.02

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日本資本主義の父と呼ばれた澁澤榮一翁(1840~1931)は,「富をなす根源は何かと言えば仁義道徳、正しい道理の富でなければその富は完全に永続することはできない。」とし「論語と算盤」を著わして,利殖と仁義道徳は一致するものであるとした孟子に倣って人格の形成と利の追及は両立させることが必要であると説かれましたが,現在の資本主義の利を最優先させて未来の資源も貪って自然環境を悪化させ人間の尊厳も軽視して個の労働力を細分化して搾取するという現状は,資本主義者や経営者の仁義道徳という個人資質に任せては解決しません。また,日本の財政赤字と環境破壊は国民が生活の利便を求めて収入を優先して自然環境の破壊を認めた結果ですが,政治も環境問題や借金を次世代に先送りする現況では未来の展望は困難です。皆さんは,この現況を見極めて,二宮尊徳翁の「徳は本なり、財は末なり。」として徳である人格・品性を養うことが根本の一義であり財の蓄積は第二,第三の問題であって本末を誤ってはならないと訓えられた「勤労・誠実・分度・推譲の道」を皆さんの二度とない人生の生き方として学び実践して欲しいと思うのです。

二宮尊徳翁は,「誠心を以て本と為す。勤労を以て主と為す。分度を以て体と為す。推譲を以て用となす。」と訓えられ,生活は勤労収入の半分で暮らして残りの半分は未来の備えと他への推譲に使うべしとされるのですが,私達が未来へ希望を拓くのであれば,資本主義システムと都市中心主義だけではなく,私達の現在の生活様式も見直す必要があるのです。

令和2年2月28日

塾長 倉田榮喜

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動物である人は,自然の摂理に従って命を繋ぐ食料を得る手段として作物の種を播いて育て,生育に支障となる雑草は自然の摂理に抗して抜き取り,人の持つ欲をエネルギーとして少しでも多くの果実を収穫する為に作物の性質に誠実に向き合って小まめに勤勉に肥料を施し成長に必要な手入れをします。

二宮尊徳翁は,「人身あれば欲あるは即ち天理なり」と人の欲を認めたうえで,「人道は私欲を制する道」とされます。天理自然の道は万古に廃れませんが,人道は人間が生活をよくする為に長年の経験の中で作り上げたもので怠れば廃れてしまいますが,人間である為には,欲を制して社会の一員としての義務を果たすことが必要とされるのです。

皆さんが自分と家族を繁栄させこれを持続させる為には,人道を遵守し誠実に勤勉に家業に務め,分に応じた自分の使命を果たす為に命の時間を使うことが必要です。人は,自分の為であれば欲をエネルギーとして勤勉誠実に仕事に務める事で蓄財という果実を得ることが出来ますが,二宮翁は「奪うに益なく,譲るに益あり」を天理とされ,人間として他人のために尽くすという「義務の先行」が人道であり,自分の為に奪う事のみに努めるのは禽獣であって人道に反するとされています。人として誠実勤勉に自己の利を計り仕事に務める事は重要ですが,人間としての義務を利己よりも先行させる事が人道とされていますので,皆さんも,人道とは何か,利己と利他の後先ついて考えてみてください。

令和2年2月22日

塾長 倉田榮喜

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孟子(紀元前372年?-紀元前289年)は,人の性は「善」であるとして,「惻隠」「羞悪」「辞譲」「是非」の四端を深拡することによって,「仁」「義」「礼」「智」という徳を身に付けることが出来ると説いたとされます。

荀子(紀元前313?-期限前238年)は,人の性は「悪」であるとし,「学は以て已むべからず」(勧学編)と「礼」を学ぶ必要性を「人之性悪、其善者偽也」として,「善」は人の努力の結果である(「偽」は人の行いという意味で嘘あるいは偽物という意味ではない。)と説いたとされます。

動物である「ヒト」は,躾を身に付けることで「人」となり,法秩序と礼儀作法を学び行って「社会の人間」として認められます。動物である人間は,生存して次世代にその種を繋ぐという本能を持ち,生存する為には他の生物も食糧として其の命をも奪いますが,自分の命を次世代に繋ぐ為に子を慈しみ守り育てます。生存の為には他も犠牲にするという性を「悪」と見れば,命を繋ぐために子を慈しむという性は「善」と見ることも出来ますので,動物である人間は性として善悪共に備えている事になります。性としての善性も成長する中で悪に染まることがあり,性としての悪性も学び続ける事で善の結果を為すことも出来るのです。

皆さんは,人は悪と善との両方の性を有する動物であることを自覚して,人間として,社会の中で自分の「天分」を顕す為に,躾を身に付け秩序作法を学び,「仁」「義」「礼」「智」の「徳」を深めて,「勧善止悪」の行動の人に成って欲しいと願っています。

令和2年2月10日  

塾長 倉田榮喜