1 渡来
現生人類の祖先であるホモサピエンスは,約7万年前,アフリカを出てアラビア半島沿岸からイラン付近に至り,ここから世界の各地に移動しました。 日本には,約3万8000年前,狩猟的一族がマンモスやナウマンゾウ等の大型動物を追って,アジア北東部から北海道に(北東アジア系),他方でアジア南東部から九州に(南東アジア系)各渡来して,北海道からは南下し九州からは北上して時を経るなかで交わり,移動を前提とする集落が作られました(一次陸渡来人:氷河を含む)。
日本列島の陸素形は,約3000万年前頃に海底プレートの沈み込みで西域と東域で大陸からちぎれ,約1650万年前頃の大海進や大陸の沈み込みで日本湖(海?)ができ,日本は,その後の地殻変動や海底火山の噴火と海位の変動で約2万年前頃に世界の東端に位置する現在に近い形の島国となりましたが,島国となった後も東アジア沿岸や南東アジア・諸島の人々が日本海や東シナ海を渡って渡来してきました(二次海渡来人)。
2 縄文
その後,一次陸渡来人と二次海渡来人も時を経る中で交わり,紀元前約1万3000年頃になると,縄文の文様をした土器を使用する狩猟と採集を生業とした集落が列島全域に見られるようになりました(縄文初期の時代)。
日本列島は,火山カルデラの上に乗っかっており,約2万5000年前頃に姶良カルデラの大噴火があり,約7300年前(約6300年前?)には鬼界カルデラが大爆発しました。鬼海カルデラ大爆発の結果,九州と本州西域は無人に近い状態になり,縄文人の人口は東北部に集中し,狩猟・漁労・採集に加えて,植物の種を植えて栽培することも生業とする定住的集落が形成されるようになりました。鬼海カルデラ爆発の影響が少なくなった後,東北縄文人の一部は,本州西域と九州に移住し(東から西への移住),定住的縄文の文化が列島全域に広まりました(縄文中期の時代)。
3 稲作
縄文中期の時代以前に熱帯ジャポニカと焼畑のイネが栽培されていたと考えられますが,約3000年前頃,中国長江の中下流域で誕生した温帯ジャポニカの種が揚子江流域の渡来人(東アジア系)によって北部九州や日本海西域沿岸の縄文人に伝えられ,約2000年前頃には,水陸混在の温帯ジャパニカのイネ作が本州にまで広がりました(縄文後期の時代)。
日本の人口は,縄文中期には約26万人位になっていましたが,約3000年前頃には10万人を下回っていました。ところが,約1000年前頃の弥生初期に北部九州に広まった水耕稲作が九州全域と本州に普及し(農耕社会の端緒),人口も約50万位までに増加しました。また,海路や陸路による地域間の通行も活発になり物々の交換が行われました。さらに,揚子江流域のクレオール語(諸説あり)を原語とした北部九州の人々の東進(九州から本州への移動)によって,水耕稲作技術の普及と一緒にこの原語も本州に伝播し,簡単な単語から共通化して日本語の祖語となったと考えられます。
弥生初期の頃からは,弥生式と呼ばれる土器が使用され以降は歴史学上弥生時代と呼ばれ,その中期頃には環濠のある大規模集落が見られるようになりました。3世紀半頃までとされる弥生時代は,新たな人種が渡来して作ったのではなく,縄文の人々が後からの渡来人も受け入れながら作り上げたと考えるのが自然であって,縄文の人種から弥生の人種への交代があったわけではないと思います。
4 祖先
日本人の祖先は,北東アジア大陸(北東アジア系)・南東アジアと諸島(南東アジア系)・長江流域(東アジア系)の人々が世界の東端に位置する日本列島で交わることで誕生しました。この頃に国境という概念はなく,その後もアジア大陸や南東アジアの人々が東端の日本列島に渡来し,縄文の人々はこれらの渡来人も受け入れながら,縄文人の手による弥生文化が作られたのだと思います。
日本人の祖先が作りあげた縄文時代は,1万年以上も継続した同質的な文化が継続しており,日本人の血と意識の根源はこの縄文の時代にあると言っても過言ではないのです。
縄文時代,人々は,自然の下に自然からの恵みを享受して共生し,回復が困難な自然破壊は行なわず,自然の偉大さを畏れ敬って神々とする崇万物の人々が築いた時代であったと思います。自然破壊も合理的と考える現代人は,自然の下にあって自然の恵みを享受して共生した縄文人に学ぶ必要があります。現代の危機を生きる私達は,1万年以上の長きに渡って生き抜いた縄文の人々の自然の中の神々を崇拝した崇万物という原点意識に帰る必要があると強く思うのです。
令和5年5月10日
立志学舎塾長 倉田榮喜