講座ⅡのⅡ 権力の発生と国家の形成

1 権力の発生

    水耕稲作には土地と水を必要とするので,土地と水を管理する権力が発生し,この頃の稲作に適した土地と川を有する血族的部族は食料等の富を蓄え,優れた指導者がいる部族は隣の集落を併せながら地域も管理する後の豪族になっていきます。

    世界史を見れば,枢軸時代と呼ばれる思想変動時代(紀元前5世紀頃)の前後から急速に農具や武器に鉄器が使用され,これによって得られた富の蓄積と武力によって,オリエントにペルシア朝帝国,インドにマウリヤ朝の統一帝国が現れ,中国では紀元前221年に秦王朝による国家統一がなされました。

    日本に鉄器が普及したのは紀元前2世紀頃と思われ,紀元前1世紀頃には農具や武器の殆どは鉄具になり,特に北部九州の豪族は,朝鮮半島との交易で鉄を手に入れて富を蓄え小王国が形成されました。この頃,倭は百余国が分立しているとされ(漢書地理志),小王国間での争乱が続きました(後漢書東夷伝)。この争乱の前後頃,九州から本州に新天地を求める血族的部族が現れて後の天皇家の始祖になったと思われます(古事記)。

2 畿内連合と倭国連合(邪馬台国連合)

 水耕稲作と鉄器の活用は,九州や本州に小国や豪族を誕生させ,大陸との交易を行う北部九州の奴国,伊都国,邪馬台国等,有明海沿岸の豪族,南九州の狗奴国(熊襲)や隼人の豪族,日本海西域の出雲王国,但馬,丹波等の豪族,瀬戸内海沿岸の吉備や播磨の小国のほか東海と関東や東北地域に長く続いた縄文社会的な豪族や部族が誕生したと思われます。畿内には泉,河内,大和,摂津,山城に小国や豪族が誕生し,天皇家の始祖となる王家は大和の奈良盆地を本拠地にしました。畿内は,陸路と水路の要衝地で瀬戸内海航路の終着地域であり,琵琶湖を水路として日本海航路に通じ,奈良盆地はその頃の稲作に適する土地と川を有し,天皇家の始祖となる王家は知識と技能を持つ一族として他の豪族に認められたと思います。さらに,この王家は,自然と祖先を祭る祭祀の権威者として力を発揮し,畿内の小国や豪族と婚姻関係を結びながら祭祀主催者として王家の地位を確立するようになっていきます。2世紀中頃,泉,河内,大和,摂津,山城(五畿)の小国や豪族は,大和の王家を中心にして畿内連合を結成します(仮説)。畿内連合では,王家は自然の神々と祖霊を祭る祭祀の主催者であり,政治権力の行使は畿内連合の衆議で行われるという体制であったと思います。その後,畿内連合は,王家が近江,丹波,但馬,吉備,播磨,伊勢の各豪族らと縁戚関係を広げるなかで出雲王国を併合し,紀元3世紀初頭には山陽道全域を管理下に置き,紀元3世紀半過ぎには東海や北陸も影響下に置き関東にも目を向けます。

 他方,紀元221年,北部九州には卑弥呼を祭祀者とする邪馬台国連合(倭国連合)が誕生して(魏志倭人伝)争乱はおさまりますが,その後再び争いが起こり一時は台与を中心とした平穏を回復したものの狗奴国等との争いで力は弱くなります。畿内連合は,この状況を利用して九州に勢力を拡大しようと衆議し,3世紀半頃には南九州の隼人や熊襲を影響下に置き,3世紀後半頃には倭国連合も併呑して,朝鮮や中国との外交を倭国連合から引き継ぎます。

3 ヤマト政権と国家の形成

     畿内連合は,4世紀には朝鮮半島の国々と交渉や交戦を繰り返し,5世紀初頭には高句麗と戦って撤退しますが,その後,東晋や宋へ遣使し,5世紀末から6世紀初頭には,王が斉や梁から鎮東大将軍の称号を受けて大王と号し,大王が国家を統括する形のヤマト政権となって大王の権威が強くなります。また,政治組織として大王家を中心にして,祖先の系譜,本拠地,職業を同じくする組織としての氏姓制度を創設し,さらに538年(552年説も)には百済から仏像と経論が献上され,592年に豊浦宮造営後の約100年間,奈良盆地南の飛鳥を中心に王宮や諸施設が造営されました(飛鳥時代)。さらに,ヤマト政権は,600年には第1回遣隋使を派遣し,603年に冠位一二階,翌年には憲法17条を各制定し,607年の遣隋使の書に「日出づるところの天子」と記し,620年に天皇記と国記が著され,712年には古事記,720年には日本書記を編纂し,次第に「日本」という国家意識が形成されて国家としての体裁も整え始められます。

    ヤマト政権は,大王が自然の神々と祖霊を祭祀する(祭祀権威)冠位の授権者(授権権威)として国家の元首の地位を占め,政治権力の行使は政権内の有力氏族の衆議で行うという権威と権力の分離を原則とする統治体制で出発しました。したがって,権威と権力の間で混乱が生じると統治は乱れ,権威と権力の独占を謀る者は滅びることが,その後の日本の史実で証明されていくのです。

  平成5年5月30日

   立志学舎塾長 倉田榮喜