講座ⅡのⅢ 日本国統治の権威と権力

1 日本国の誕生と統治

     ヤマト政権が,国名を日本と記したのは新羅への遣使(670年)が最初とされますが,国名を日本としたこ とが対外的に周知さるのは8世紀になってからのようです(日の丸が国旗として制定されるのは1870年)。

    ヤマト政権は,645年の乙巳の変以降,唐を手本にして律令国家の道を整備し,646年に改新の詔を発布 して公地公民制の原則,中央集権的行政制度(科挙と宦官は除外),軍事・交通制度,班田制,新税制を定め,663年に倭の遠征軍は唐・新羅の連合軍に大敗(白村江の戦い)しますが,670年には全国的な戸籍(庚午籍)を作り,672年の壬申の乱を経て694年に瓦葺の本格的宮都藤原京を造営しました。大宝律令は701年に完成し,中央集権的行政体制が整備され,708年には和同開珎(国内最古としては富本銭)が流通して市場が立ち,711年には蓄銭叙位令が発令されます。大宝律令で刑事法(律)と行政法(令)を定め,官僚制として神祇・祭祀を司る神祇官と行政を掌る太政官が置かれて官位相当制と地方官制が施行され,国内は西海道,山陽道,南海山陰道,畿内,東海道,北陸道,東山道と整備し順次に国府や国分寺が設置され,801年には蝦夷が征討され803年陸奥に志波城が置かれて,東北の一部と北海道や琉球を除いた日本列島全域にヤマト政権の影響が及びますが天皇直轄軍の規定は置かず権威を担保する武力はありませんでした。人々は,皇族の下に良民(官人・公民・雑色人)と賤民(五色の賤)とに区分され,官人と公奴婢以外は班田収授法に基づいて口分田から祖・調・雑徭・出挙の税を負担し,口分田が不足すると三世一身法から墾田永年私財法が施行され墾田の永久私有が認められて地方の豪族も力を増します(奈良時代)。663年の白村江の大敗で,ヤマト政権は壱岐や対馬に防人を置き筑紫に水城を造り,667年には王宮(王の住居)を近江の大津宮に移し,さらに694年には大和三山に囲まれた飛鳥の西北部(現在の橿原市)の藤原京に移転した後,710年には平城京を造営して遷都し,784年の長岡京を経て794年に平安京に遷都します(平安時代)。

2 王宮の所在と皇統の継承

 紀元前1世紀頃,天皇家の始祖とされる神武天皇は奈良盆地の橿原で力をつけ(纏向・箸墓等遺跡),10代とされる崇神天皇は橿原近くの師木に王宮(磯城瑞離宮)を置き,14代仲哀天皇までは奈良盆地内(出征の最終地は筑紫)に王宮が置かれましたが,15代応神天皇からは河内(百舌鳥古墳・古市古墳)の軽島や難波に王宮は移転しています。神武・崇神系天皇(崇神王朝系)と応神・仁徳系天皇(応神王朝系)と第26代継体天皇以降(継体王朝系)の間に王朝交代説もありますが,神武天皇・崇神天皇から応神天皇と継体天皇に至るまで皇統は継続し王宮の移転は政治情勢の変化に対応するもので畿内間の王朝交代の戦はなかったと思います。

 王朝交代が畿内の小王国間の戦さによる征服的交代であれば邪馬台国連合と同じで畿内連合の力は削がれ,出雲王国や邪馬台国を併合することは出来なかったからです。畿内連合内では王朝交代の戦いを想定しなかったので,城壁都市を造る必要がなかったのだと思います。継体天皇が飛鳥の王都に入るのに20年間を要したとしても,それは畿内氏族間での衆議が一致するまで時間を要したからだと思いますし,769年の宇佐八幡神託事件は応神系と継体系の血脈が継承されていることを示すものだと思います。ヤマト政権は,王家の祭祀権威と血縁の拡大によって誕生し,王家の血脈は直系如何に関わらず継承されており,血脈の継承と祖霊崇拝は自然尊崇の念と共に日本の伝統意識の根幹です。王宮は,794年に京都に平安京が設営されてから1869年(明治2年)に東京に遷都されるまでの千年間(福原遷都を除く),京都は権威の中心地であり続けましたが,次第に政治権力が天皇の権威を圧迫するようになり,貴族による摂関政治を経て武家の棟梁としての平家と源氏が台頭し,鎌倉幕府,江戸幕府と王都から離れた武家政権による政都が作られて,天皇の権威は次第に無力化していきます。

3 統治における権威と権力の混乱

 ヤマト政権を創始とする統治体制は,天皇の祭祀権・授位権・裁可権に基づく権威の力と政権中枢氏族の衆議に基づく律・令の政治権力(執政権)という権威と権力の分離体制で出発していたと思います。しかし,ヤマト政権が成立し国家の形が整い始めてから,天皇の権威と執政の権力を軸に政変や争乱が起こり,時には権力が権威の簒奪を謀り,時には権威が権力を抑え込もうとする争乱が起こりました。ヤマト政権が原則にした公地公民制も権威と権力の混乱の一因となり,権力を持つ中央官僚や武力を持つ豪族間の土地を巡る争いとなり政変や争乱が頻発します。

  • 権威の簒奪:蘇我氏の天皇暗殺事件,宇佐八幡神託事件等
  • 権威の回復:乙巳の変,承久の乱,建武の新政等
  • 権威の争奪:壬申の乱,皇統の分裂(南北朝)等
  • 権威の弱体化と失墜:天慶の乱,前九年の合戦,後三年合戦,藤原氏の摂関政治,保元・平治の乱,院政開始,承久の乱,上皇・天皇の配流,南北朝両立等
  • 権力の専横:平氏の福原遷都,北条氏の執権政治,皇室領荘園への介入,足利氏の天皇権限接収等
  • 権力の争奪:応仁の乱,戦国大名の分国支配(中央集権的行政体制崩壊),戦国時代,山崎の合戦,関ヶ原の戦い等
  • 権威の無力化:皇室財政の逼迫,足利義満の国王詐称,織田信長の神宣言,豊臣秀吉の王称と朝鮮出兵,徳川幕藩体制と政都江戸の造営
  • 権威の囲い込み:江戸幕府による天皇と皇室の囲い込み
  • 権威の悪用:明治政府の中央集権体制,東京遷都,軍国化,日清・日露戦争,中国大陸出兵,日米英戦争の敗戦等
  • 権威の象徴化:日本国憲法,天皇の裁可権と授位権の形式化,祭祀権の無力化と祖霊尊崇の希薄化等

 権威なき権力は国民の求心力を欠きいずれ失墜することは史実からも明らかです。日本の安定した統治には,権威の確立(元首の明確化,権威と権力の分離)と権力行使の衆議(原則は多数決でない合意形成)が制度化され,国家と個人の中間項として家庭(家族)の充実と集落(町村単位)の強化が必要です。また,世界に紛争が激化する現況ではできる限りの外交努力を前提にしても,国家と人々の安全を守る専守防衛の実行力を担保する程度に武力を充足させることも不可欠と思います。

  令和5年6月30日

   立志学舎塾長 倉田榮喜