講座ⅡのⅤ 日本人の国家意識

1 日本民族

 日本人(日本国籍を持つ人)の大多数を占める日本民族は,日本列島に定着した縄文人の血を微細でも受け継ぎ,自然尊崇と祖先崇拝の意識を根底に持ち日本を祖国とする人々の総称で,アイヌの人々も縄文人の血を受け継ぐ日本民族です(私説)。縄文人は,水耕稲作を生産の基盤とする農業民族として成長し,列島近辺の海域は主に魚貝等の漁労や列島沿岸間の航路として活用しましたが,海洋資源域として開発的な利用を行った事はなく,世界6位の領海を活用できるかは今後の課題です。

 日本は,世界東端の島国で四辺の海域は他民族の侵入を困難にし,列島に定着した縄文人は列島内の他の縄文人や後からの渡来人と交流を進めるなかで交わり,やがて,ヤマト政権により初期国家が形成されて,国号を日本と称した7世紀以降には神話(古事記・日本書記)を共有できる民族として独自の文化文明を持つ国家になります。

 ヤマト政権は,草創期の512年に加耶4県を百済に割譲し,663年に白村江の戦いで大敗して以降は内向的国家となり,遣隋使や遣唐使を通じて大陸の文明を学びながらも,列島の自然風土と民族の精神に調和するように柔軟に工夫して独自の文化に創造発展させ遂には神と仏をも融合させましたが,神の他に仏を認めることは天皇の権威を弱めることになりました。また,文明開化が叫ばれた明治期に流入した西欧文明は,日本の統治に重大な影響を与え,さらには昭和の敗戦後における欧米の思想は,日本人の精神の根幹を揺るがせて民族の存亡的状況さえも作り出すようになりました(講座ⅡのⅥ)。

2 日本民族と天皇

 国家と民族を支える根本であった農業は,自然の天候に左右され日照・豪雨台風・大地震等によって頻発する飢饉と災害死に対して人々は自然に存する神々に祈るしかなく,祭祀の権威と認められる天皇はヤマト政権の中心に位置づけられました。天皇は,氏姓制度の最高位として祭政一致の統治で唯一の権威者となって,豊穣を祈る年号を制定し農業の基本となる暦を作成しました。ヤマト政権は,小王国的集落の総合体として誕生し律令制度の下,縄文時代と殆ど変わらない暮らしぶりの中で,人々が国家の財政基盤を支えたのは,天皇が祭祀の権威者であり国家の中心権威であったからだと思います。人々は,自然の神への祈りと共に農作業に必要な集団の力と和を優先させる事が集落で生活する為に必要であることを自得し,目的達成の為に集団の中で自分の役割を果たすよう努めました。その後,時を経るなか地域や集落に設置されていく神社は,自然の神々を祭る地域集落の拠り所となり,集落の人々は神社の祭祀を通じて天皇を尊崇し,さらに天皇に関係する祖先や地域の偉人を守り神とした神社は厄災撲滅を祈る地域の守り社になり,天皇の権威を基礎づける場所になりました。

 摂関政治末期に武家政権が台頭し,江戸時代に政治権力が幕府や藩主に移行した後,天皇が統治権力に対する影響力を殆ど持たなくなっても,祭祀権と官位授位の権威が天皇にあることに揺るぎはなく,時の権力者にとって天皇から位階を授けられることが統治権力の名分を保障する大義となり,天皇は,ヤマト政権の創国から現在に至るまで日本国の唯一の伝統権威として存在しているのです。

3 日本人の国家意識

 日本国は,7世紀になって国名を日本としたことを内外に宣言して以降,日本民族の大部分は律令体制と氏姓制の下で租税(物納),労役,兵役を負担することで統治権力を意識せざるを得ず,全国に数多くある神社の存在は,天皇を中心権威とする国家意識の醸成につながりました。国家の非常時である他国との戦争は,人々に国家を強烈に意識させ,日本列島は四方を荒海で守られて他国の襲撃を受けることは少なかったのですが,512年の加耶4県の百済割譲,663年の白村江の敗戦,1019年の刀伊来襲,1274年と1281年の蒙古襲来,1592年と1597年の朝鮮出兵,1806年のロシアの樺太襲撃,1807年のロシアの千島襲撃,1861年のロシア軍艦による対馬芋埼占拠,1874年台湾出兵,1894年日清戦争,1904年日露戦争,1914年第一次世界大戦参入,1931年満州事変,1941年対英米開戦(第二次世界大戦)と戦いが部分的戦闘から国家的戦争になるにつれて,前線で戦った兵士の大多数は,何の為に死ぬのかを自問しながら家族を想い故郷を偲び,家族と故郷を守る為に戦うと自身に言い聞かせるしかなかったと思います。

 国家の非常時である戦争や大災害に臨応するには,人々の求心力が家族や故郷の他に国家に対してもなければならず,求心力の源として天皇の権威を明確にする事が最重要であって,その為には,憲法に天皇を元首と明記して「集」と「個」の調和を基とする新憲法の制定が日本の為に必要だと思います。

 令和5年8月10日

  立志学舎塾長 倉田榮喜