講座ⅡのⅤ 日本人の国家意識

1 日本民族

 日本人(日本国籍を持つ人)の大多数を占める日本民族は,日本列島に定着した縄文人の血を微細でも受け継ぎ,自然尊崇と祖先崇拝の意識を根底に持ち日本を祖国とする人々の総称で,アイヌの人々も縄文人の血を受け継ぐ日本民族です(私説)。縄文人は,水耕稲作を生産の基盤とする農業民族として成長し,列島近辺の海域は主に魚貝等の漁労や列島沿岸間の航路として活用しましたが,海洋資源域として開発的な利用を行った事はなく,世界6位の領海を活用できるかは今後の課題です。

 日本は,世界東端の島国で四辺の海域は他民族の侵入を困難にし,列島に定着した縄文人は列島内の他の縄文人や後からの渡来人と交流を進めるなかで交わり,やがて,ヤマト政権により初期国家が形成されて,国号を日本と称した7世紀以降には神話(古事記・日本書記)を共有できる民族として独自の文化文明を持つ国家になります。

 ヤマト政権は,草創期の512年に加耶4県を百済に割譲し,663年に白村江の戦いで大敗して以降は内向的国家となり,遣隋使や遣唐使を通じて大陸の文明を学びながらも,列島の自然風土と民族の精神に調和するように柔軟に工夫して独自の文化に創造発展させ遂には神と仏をも融合させましたが,神の他に仏を認めることは天皇の権威を弱めることになりました。また,文明開化が叫ばれた明治期に流入した西欧文明は,日本の統治に重大な影響を与え,さらには昭和の敗戦後における欧米の思想は,日本人の精神の根幹を揺るがせて民族の存亡的状況さえも作り出すようになりました(講座ⅡのⅥ)。

2 日本民族と天皇

 国家と民族を支える根本であった農業は,自然の天候に左右され日照・豪雨台風・大地震等によって頻発する飢饉と災害死に対して人々は自然に存する神々に祈るしかなく,祭祀の権威と認められる天皇はヤマト政権の中心に位置づけられました。天皇は,氏姓制度の最高位として祭政一致の統治で唯一の権威者となって,豊穣を祈る年号を制定し農業の基本となる暦を作成しました。ヤマト政権は,小王国的集落の総合体として誕生し律令制度の下,縄文時代と殆ど変わらない暮らしぶりの中で,人々が国家の財政基盤を支えたのは,天皇が祭祀の権威者であり国家の中心権威であったからだと思います。人々は,自然の神への祈りと共に農作業に必要な集団の力と和を優先させる事が集落で生活する為に必要であることを自得し,目的達成の為に集団の中で自分の役割を果たすよう努めました。その後,時を経るなか地域や集落に設置されていく神社は,自然の神々を祭る地域集落の拠り所となり,集落の人々は神社の祭祀を通じて天皇を尊崇し,さらに天皇に関係する祖先や地域の偉人を守り神とした神社は厄災撲滅を祈る地域の守り社になり,天皇の権威を基礎づける場所になりました。

 摂関政治末期に武家政権が台頭し,江戸時代に政治権力が幕府や藩主に移行した後,天皇が統治権力に対する影響力を殆ど持たなくなっても,祭祀権と官位授位の権威が天皇にあることに揺るぎはなく,時の権力者にとって天皇から位階を授けられることが統治権力の名分を保障する大義となり,天皇は,ヤマト政権の創国から現在に至るまで日本国の唯一の伝統権威として存在しているのです。

3 日本人の国家意識

 日本国は,7世紀になって国名を日本としたことを内外に宣言して以降,日本民族の大部分は律令体制と氏姓制の下で租税(物納),労役,兵役を負担することで統治権力を意識せざるを得ず,全国に数多くある神社の存在は,天皇を中心権威とする国家意識の醸成につながりました。国家の非常時である他国との戦争は,人々に国家を強烈に意識させ,日本列島は四方を荒海で守られて他国の襲撃を受けることは少なかったのですが,512年の加耶4県の百済割譲,663年の白村江の敗戦,1019年の刀伊来襲,1274年と1281年の蒙古襲来,1592年と1597年の朝鮮出兵,1806年のロシアの樺太襲撃,1807年のロシアの千島襲撃,1861年のロシア軍艦による対馬芋埼占拠,1874年台湾出兵,1894年日清戦争,1904年日露戦争,1914年第一次世界大戦参入,1931年満州事変,1941年対英米開戦(第二次世界大戦)と戦いが部分的戦闘から国家的戦争になるにつれて,前線で戦った兵士の大多数は,何の為に死ぬのかを自問しながら家族を想い故郷を偲び,家族と故郷を守る為に戦うと自身に言い聞かせるしかなかったと思います。

 国家の非常時である戦争や大災害に臨応するには,人々の求心力が家族や故郷の他に国家に対してもなければならず,求心力の源として天皇の権威を明確にする事が最重要であって,その為には,憲法に天皇を元首と明記して「集」と「個」の調和を基とする新憲法の制定が日本の為に必要だと思います。

 令和5年8月10日

  立志学舎塾長 倉田榮喜

講座ⅡのⅣ 日本国の存立基盤と伝統文化

1 日本列島の自然風土と日本民族の伝統

 日本国の存立基盤は,世界の東端に位置する四辺臨海の地政上の位置,日本列島の自然風土,列島に定着した同一民族による創国から現在まで続く天皇を中心権威とする伝統,民族が持つ繊細な技術力,民族固有の文化に在ります。日本国は,地政上で戦略的要衝の領土と四方を海に囲まれた世界6位の領海を持つ島国列島で,領土は四季の山海の幸に恵まれ,列島に定着した縄文人は自然を尊崇し家族を核としながら自我よりも集落の和を優先させる人々でした。縄文の人々は,大自然の中で生き残る為には相互に支え合い・助け合うことが必然であり,個の力を纏めた集団の力こそが命を未来に繋ぐ力であることを心身で感じていたのです。

 日本列島は,台風や豪雨災害に加えて地震が頻発する自然災害の大多発国で他に逃げる所がない島国であると共に四季の果菜物等の大地の幸と魚貝等の海の幸に恵まれた所で,縄文の人々が持ち続けた風水害や大地震を起こす自然への畏怖の念と大地川海の幸を恵む自然への感謝の念は,自然界に存する神々を畏敬尊崇する宗教心を芽生えさせ,この宗教心と命の源である祖先崇拝の心情が天皇を権威と認める伝統に繋がったと思います。そして,縄文時代から蝦夷や琉球の人々を含め日本列島全域で一万年以上の長期にわたり類似の生活様式と慣習が形成され,政治体制や言語が統一されていなかったとしても,祖先たる縄文人と後来の渡来人との幾多の交わりはあっても,現在に至るまでも騎馬民族等の他民族に入れ替わったことはなく,民族の同一性が保たれて天皇を権威とする伝統は世界に例がないのです。

2 伝統と権力

 伝統は,祖代の系統を受け継ぐ慣行や文化に示されるもので,日本の「伝統」は,自然尊崇・祖先崇拝の慣行と個人よりも集団を重んじる「和」と「非自我」の精神が時の経過に淘汰されながら受け継がれた「縦」の関係を示すものです。伝統は,権威を重んじ祖父代々の智慧と暮らしの慣行を受け継ぎ,伝統主義は同世代における権力関係である民主主義と対置されるものです。民主主義は,同世代の「横」の関係を示し権力と知識に基づき「個人の尊厳」を基本価値として人権と平等を重視し,同世代の総意として前世代からの智慧の総積である伝統を拒絶して変更することもありますので,縦の関係を示す伝統主義と横の関係を示す民主主義や無限定の合理主義との関係を整理しておく必要があるのです(講座ⅡのⅥ)。

   生命の根源価値である「種の尊厳」と現憲法が基本価値とする「個人の尊厳」との価値を考慮した場合,種の尊厳が個人の尊厳よりも上位の価値であって,命を繋ぐ為に集団における「和」が必要とされる場合には,個々の人権や平等は譲らなければならないのです。伝統は,祖代々の智慧の総積に基づくものであり,権力は,同世代の民意と知識に基づくものですから,種の尊厳が個人の尊厳よりも上位の根源価値であるように,倫理において縦の関係が主であり横の関係が従であるように,縦の関係を示す伝統主義が主であり,横の関係を示す民主主義は従であることを前提にして,自然を尊重して全体と相互の調和を計らなければならないと思います。

3 権威と文化

 文化は,民族の精神性や創造性が生活の在様や方法に示されるもので,文明は生活様式の物的客観的施設や制度です。日本の文化は,自然尊崇や祖先崇拝と和を優先する精神を顕わす特性を持ちこの精神性や特性は地域集落毎の祭事や四季の行事として受け継がれ,集団の和を優先する非自我の意識は武士道や芸道の根底になりました。 日本は,大陸の東端に位置する辺域の島国であったことから,大陸の文化文明を学ぶ必要がありましたが,日本民族は,隋や唐等の大陸の文化文明を学びながらもそのまま受容する事は無く繊細な技術と工夫で独自の文化を創造しました。

   17条憲法の第1条が「和を以て貴しとし」と宣言し,同10条に「我独り得たりと雖も,衆に従いて同じく挙へ」とし,最後の17条にも「夫れ事は独断すべからず。必ず衆と論うべし」とするのは,「和」と「衆議」の精神を宣言するもので,仮に衆議が中華文明の影響を受けていたとしても,ヤマト政権の創国時以前から各農村集落において衆議一致の原則が基底にあったからこそ「和」と「衆議」が日本民族の基本になり,農村集落の全戸参加の寄合による衆議一致の原則は,明治の時代にも残り例外としての「村八分」の慣習もありました。日本人は,和と衆議の精神が日本の伝統文化に貫通されその伝統文化は権威によって守られ続けていることを覚知し,日本国は,その権威の中心が天皇に存することを国民に周知しなくてはならないと思います。

      令和5年7月31日

       立志学舎塾長 倉田榮喜

講座ⅡのⅢ 日本国統治の権威と権力

1 日本国の誕生と統治

     ヤマト政権が,国名を日本と記したのは新羅への遣使(670年)が最初とされますが,国名を日本としたこ とが対外的に周知さるのは8世紀になってからのようです(日の丸が国旗として制定されるのは1870年)。

    ヤマト政権は,645年の乙巳の変以降,唐を手本にして律令国家の道を整備し,646年に改新の詔を発布 して公地公民制の原則,中央集権的行政制度(科挙と宦官は除外),軍事・交通制度,班田制,新税制を定め,663年に倭の遠征軍は唐・新羅の連合軍に大敗(白村江の戦い)しますが,670年には全国的な戸籍(庚午籍)を作り,672年の壬申の乱を経て694年に瓦葺の本格的宮都藤原京を造営しました。大宝律令は701年に完成し,中央集権的行政体制が整備され,708年には和同開珎(国内最古としては富本銭)が流通して市場が立ち,711年には蓄銭叙位令が発令されます。大宝律令で刑事法(律)と行政法(令)を定め,官僚制として神祇・祭祀を司る神祇官と行政を掌る太政官が置かれて官位相当制と地方官制が施行され,国内は西海道,山陽道,南海山陰道,畿内,東海道,北陸道,東山道と整備し順次に国府や国分寺が設置され,801年には蝦夷が征討され803年陸奥に志波城が置かれて,東北の一部と北海道や琉球を除いた日本列島全域にヤマト政権の影響が及びますが天皇直轄軍の規定は置かず権威を担保する武力はありませんでした。人々は,皇族の下に良民(官人・公民・雑色人)と賤民(五色の賤)とに区分され,官人と公奴婢以外は班田収授法に基づいて口分田から祖・調・雑徭・出挙の税を負担し,口分田が不足すると三世一身法から墾田永年私財法が施行され墾田の永久私有が認められて地方の豪族も力を増します(奈良時代)。663年の白村江の大敗で,ヤマト政権は壱岐や対馬に防人を置き筑紫に水城を造り,667年には王宮(王の住居)を近江の大津宮に移し,さらに694年には大和三山に囲まれた飛鳥の西北部(現在の橿原市)の藤原京に移転した後,710年には平城京を造営して遷都し,784年の長岡京を経て794年に平安京に遷都します(平安時代)。

2 王宮の所在と皇統の継承

 紀元前1世紀頃,天皇家の始祖とされる神武天皇は奈良盆地の橿原で力をつけ(纏向・箸墓等遺跡),10代とされる崇神天皇は橿原近くの師木に王宮(磯城瑞離宮)を置き,14代仲哀天皇までは奈良盆地内(出征の最終地は筑紫)に王宮が置かれましたが,15代応神天皇からは河内(百舌鳥古墳・古市古墳)の軽島や難波に王宮は移転しています。神武・崇神系天皇(崇神王朝系)と応神・仁徳系天皇(応神王朝系)と第26代継体天皇以降(継体王朝系)の間に王朝交代説もありますが,神武天皇・崇神天皇から応神天皇と継体天皇に至るまで皇統は継続し王宮の移転は政治情勢の変化に対応するもので畿内間の王朝交代の戦はなかったと思います。

 王朝交代が畿内の小王国間の戦さによる征服的交代であれば邪馬台国連合と同じで畿内連合の力は削がれ,出雲王国や邪馬台国を併合することは出来なかったからです。畿内連合内では王朝交代の戦いを想定しなかったので,城壁都市を造る必要がなかったのだと思います。継体天皇が飛鳥の王都に入るのに20年間を要したとしても,それは畿内氏族間での衆議が一致するまで時間を要したからだと思いますし,769年の宇佐八幡神託事件は応神系と継体系の血脈が継承されていることを示すものだと思います。ヤマト政権は,王家の祭祀権威と血縁の拡大によって誕生し,王家の血脈は直系如何に関わらず継承されており,血脈の継承と祖霊崇拝は自然尊崇の念と共に日本の伝統意識の根幹です。王宮は,794年に京都に平安京が設営されてから1869年(明治2年)に東京に遷都されるまでの千年間(福原遷都を除く),京都は権威の中心地であり続けましたが,次第に政治権力が天皇の権威を圧迫するようになり,貴族による摂関政治を経て武家の棟梁としての平家と源氏が台頭し,鎌倉幕府,江戸幕府と王都から離れた武家政権による政都が作られて,天皇の権威は次第に無力化していきます。

3 統治における権威と権力の混乱

 ヤマト政権を創始とする統治体制は,天皇の祭祀権・授位権・裁可権に基づく権威の力と政権中枢氏族の衆議に基づく律・令の政治権力(執政権)という権威と権力の分離体制で出発していたと思います。しかし,ヤマト政権が成立し国家の形が整い始めてから,天皇の権威と執政の権力を軸に政変や争乱が起こり,時には権力が権威の簒奪を謀り,時には権威が権力を抑え込もうとする争乱が起こりました。ヤマト政権が原則にした公地公民制も権威と権力の混乱の一因となり,権力を持つ中央官僚や武力を持つ豪族間の土地を巡る争いとなり政変や争乱が頻発します。

  • 権威の簒奪:蘇我氏の天皇暗殺事件,宇佐八幡神託事件等
  • 権威の回復:乙巳の変,承久の乱,建武の新政等
  • 権威の争奪:壬申の乱,皇統の分裂(南北朝)等
  • 権威の弱体化と失墜:天慶の乱,前九年の合戦,後三年合戦,藤原氏の摂関政治,保元・平治の乱,院政開始,承久の乱,上皇・天皇の配流,南北朝両立等
  • 権力の専横:平氏の福原遷都,北条氏の執権政治,皇室領荘園への介入,足利氏の天皇権限接収等
  • 権力の争奪:応仁の乱,戦国大名の分国支配(中央集権的行政体制崩壊),戦国時代,山崎の合戦,関ヶ原の戦い等
  • 権威の無力化:皇室財政の逼迫,足利義満の国王詐称,織田信長の神宣言,豊臣秀吉の王称と朝鮮出兵,徳川幕藩体制と政都江戸の造営
  • 権威の囲い込み:江戸幕府による天皇と皇室の囲い込み
  • 権威の悪用:明治政府の中央集権体制,東京遷都,軍国化,日清・日露戦争,中国大陸出兵,日米英戦争の敗戦等
  • 権威の象徴化:日本国憲法,天皇の裁可権と授位権の形式化,祭祀権の無力化と祖霊尊崇の希薄化等

 権威なき権力は国民の求心力を欠きいずれ失墜することは史実からも明らかです。日本の安定した統治には,権威の確立(元首の明確化,権威と権力の分離)と権力行使の衆議(原則は多数決でない合意形成)が制度化され,国家と個人の中間項として家庭(家族)の充実と集落(町村単位)の強化が必要です。また,世界に紛争が激化する現況ではできる限りの外交努力を前提にしても,国家と人々の安全を守る専守防衛の実行力を担保する程度に武力を充足させることも不可欠と思います。

  令和5年6月30日

   立志学舎塾長 倉田榮喜

 

講座ⅡのⅡ 権力の発生と国家の形成

1 権力の発生

    水耕稲作には土地と水を必要とするので,土地と水を管理する権力が発生し,この頃の稲作に適した土地と川を有する血族的部族は食料等の富を蓄え,優れた指導者がいる部族は隣の集落を併せながら地域も管理する後の豪族になっていきます。

    世界史を見れば,枢軸時代と呼ばれる思想変動時代(紀元前5世紀頃)の前後から急速に農具や武器に鉄器が使用され,これによって得られた富の蓄積と武力によって,オリエントにペルシア朝帝国,インドにマウリヤ朝の統一帝国が現れ,中国では紀元前221年に秦王朝による国家統一がなされました。

    日本に鉄器が普及したのは紀元前2世紀頃と思われ,紀元前1世紀頃には農具や武器の殆どは鉄具になり,特に北部九州の豪族は,朝鮮半島との交易で鉄を手に入れて富を蓄え小王国が形成されました。この頃,倭は百余国が分立しているとされ(漢書地理志),小王国間での争乱が続きました(後漢書東夷伝)。この争乱の前後頃,九州から本州に新天地を求める血族的部族が現れて後の天皇家の始祖になったと思われます(古事記)。

2 畿内連合と倭国連合(邪馬台国連合)

 水耕稲作と鉄器の活用は,九州や本州に小国や豪族を誕生させ,大陸との交易を行う北部九州の奴国,伊都国,邪馬台国等,有明海沿岸の豪族,南九州の狗奴国(熊襲)や隼人の豪族,日本海西域の出雲王国,但馬,丹波等の豪族,瀬戸内海沿岸の吉備や播磨の小国のほか東海と関東や東北地域に長く続いた縄文社会的な豪族や部族が誕生したと思われます。畿内には泉,河内,大和,摂津,山城に小国や豪族が誕生し,天皇家の始祖となる王家は大和の奈良盆地を本拠地にしました。畿内は,陸路と水路の要衝地で瀬戸内海航路の終着地域であり,琵琶湖を水路として日本海航路に通じ,奈良盆地はその頃の稲作に適する土地と川を有し,天皇家の始祖となる王家は知識と技能を持つ一族として他の豪族に認められたと思います。さらに,この王家は,自然と祖先を祭る祭祀の権威者として力を発揮し,畿内の小国や豪族と婚姻関係を結びながら祭祀主催者として王家の地位を確立するようになっていきます。2世紀中頃,泉,河内,大和,摂津,山城(五畿)の小国や豪族は,大和の王家を中心にして畿内連合を結成します(仮説)。畿内連合では,王家は自然の神々と祖霊を祭る祭祀の主催者であり,政治権力の行使は畿内連合の衆議で行われるという体制であったと思います。その後,畿内連合は,王家が近江,丹波,但馬,吉備,播磨,伊勢の各豪族らと縁戚関係を広げるなかで出雲王国を併合し,紀元3世紀初頭には山陽道全域を管理下に置き,紀元3世紀半過ぎには東海や北陸も影響下に置き関東にも目を向けます。

 他方,紀元221年,北部九州には卑弥呼を祭祀者とする邪馬台国連合(倭国連合)が誕生して(魏志倭人伝)争乱はおさまりますが,その後再び争いが起こり一時は台与を中心とした平穏を回復したものの狗奴国等との争いで力は弱くなります。畿内連合は,この状況を利用して九州に勢力を拡大しようと衆議し,3世紀半頃には南九州の隼人や熊襲を影響下に置き,3世紀後半頃には倭国連合も併呑して,朝鮮や中国との外交を倭国連合から引き継ぎます。

3 ヤマト政権と国家の形成

     畿内連合は,4世紀には朝鮮半島の国々と交渉や交戦を繰り返し,5世紀初頭には高句麗と戦って撤退しますが,その後,東晋や宋へ遣使し,5世紀末から6世紀初頭には,王が斉や梁から鎮東大将軍の称号を受けて大王と号し,大王が国家を統括する形のヤマト政権となって大王の権威が強くなります。また,政治組織として大王家を中心にして,祖先の系譜,本拠地,職業を同じくする組織としての氏姓制度を創設し,さらに538年(552年説も)には百済から仏像と経論が献上され,592年に豊浦宮造営後の約100年間,奈良盆地南の飛鳥を中心に王宮や諸施設が造営されました(飛鳥時代)。さらに,ヤマト政権は,600年には第1回遣隋使を派遣し,603年に冠位一二階,翌年には憲法17条を各制定し,607年の遣隋使の書に「日出づるところの天子」と記し,620年に天皇記と国記が著され,712年には古事記,720年には日本書記を編纂し,次第に「日本」という国家意識が形成されて国家としての体裁も整え始められます。

    ヤマト政権は,大王が自然の神々と祖霊を祭祀する(祭祀権威)冠位の授権者(授権権威)として国家の元首の地位を占め,政治権力の行使は政権内の有力氏族の衆議で行うという権威と権力の分離を原則とする統治体制で出発しました。したがって,権威と権力の間で混乱が生じると統治は乱れ,権威と権力の独占を謀る者は滅びることが,その後の日本の史実で証明されていくのです。

  平成5年5月30日

   立志学舎塾長 倉田榮喜

講座ⅡのⅠ 日本人の祖先と縄文の時代

1 渡来

   現生人類の祖先であるホモサピエンスは,約7万年前,アフリカを出てアラビア半島沿岸からイラン付近に至り,ここから世界の各地に移動しました。  日本には,約3万8000年前,狩猟的一族がマンモスやナウマンゾウ等の大型動物を追って,アジア北東部から北海道に(北東アジア系),他方でアジア南東部から九州に(南東アジア系)各渡来して,北海道からは南下し九州からは北上して時を経るなかで交わり,移動を前提とする集落が作られました(一次陸渡来人:氷河を含む)。

 日本列島の陸素形は,約3000万年前頃に海底プレートの沈み込みで西域と東域で大陸からちぎれ,約1650万年前頃の大海進や大陸の沈み込みで日本湖(海?)ができ,日本は,その後の地殻変動や海底火山の噴火と海位の変動で約2万年前頃に世界の東端に位置する現在に近い形の島国となりましたが,島国となった後も東アジア沿岸や南東アジア・諸島の人々が日本海や東シナ海を渡って渡来してきました(二次海渡来人)。

2 縄文

 その後,一次陸渡来人と二次海渡来人も時を経る中で交わり,紀元前約1万3000年頃になると,縄文の文様をした土器を使用する狩猟と採集を生業とした集落が列島全域に見られるようになりました(縄文初期の時代)。

 日本列島は,火山カルデラの上に乗っかっており,約2万5000年前頃に姶良カルデラの大噴火があり,約7300年前(約6300年前?)には鬼界カルデラが大爆発しました。鬼海カルデラ大爆発の結果,九州と本州西域は無人に近い状態になり,縄文人の人口は東北部に集中し,狩猟・漁労・採集に加えて,植物の種を植えて栽培することも生業とする定住的集落が形成されるようになりました。鬼海カルデラ爆発の影響が少なくなった後,東北縄文人の一部は,本州西域と九州に移住し(東から西への移住),定住的縄文の文化が列島全域に広まりました(縄文中期の時代)。

3 稲作

 縄文中期の時代以前に熱帯ジャポニカと焼畑のイネが栽培されていたと考えられますが,約3000年前頃,中国長江の中下流域で誕生した温帯ジャポニカの種が揚子江流域の渡来人(東アジア系)によって北部九州や日本海西域沿岸の縄文人に伝えられ,約2000年前頃には,水陸混在の温帯ジャパニカのイネ作が本州にまで広がりました(縄文後期の時代)。

 日本の人口は,縄文中期には約26万人位になっていましたが,約3000年前頃には10万人を下回っていました。ところが,約1000年前頃の弥生初期に北部九州に広まった水耕稲作が九州全域と本州に普及し(農耕社会の端緒),人口も約50万位までに増加しました。また,海路や陸路による地域間の通行も活発になり物々の交換が行われました。さらに,揚子江流域のクレオール語(諸説あり)を原語とした北部九州の人々の東進(九州から本州への移動)によって,水耕稲作技術の普及と一緒にこの原語も本州に伝播し,簡単な単語から共通化して日本語の祖語となったと考えられます。

 弥生初期の頃からは,弥生式と呼ばれる土器が使用され以降は歴史学上弥生時代と呼ばれ,その中期頃には環濠のある大規模集落が見られるようになりました。3世紀半頃までとされる弥生時代は,新たな人種が渡来して作ったのではなく,縄文の人々が後からの渡来人も受け入れながら作り上げたと考えるのが自然であって,縄文の人種から弥生の人種への交代があったわけではないと思います。

4 祖先

 日本人の祖先は,北東アジア大陸(北東アジア系)・南東アジアと諸島(南東アジア系)・長江流域(東アジア系)の人々が世界の東端に位置する日本列島で交わることで誕生しました。この頃に国境という概念はなく,その後もアジア大陸や南東アジアの人々が東端の日本列島に渡来し,縄文の人々はこれらの渡来人も受け入れながら,縄文人の手による弥生文化が作られたのだと思います。

    日本人の祖先が作りあげた縄文時代は,1万年以上も継続した同質的な文化が継続しており,日本人の血と意識の根源はこの縄文の時代にあると言っても過言ではないのです。

 縄文時代,人々は,自然の下に自然からの恵みを享受して共生し,回復が困難な自然破壊は行なわず,自然の偉大さを畏れ敬って神々とする崇万物の人々が築いた時代であったと思います。自然破壊も合理的と考える現代人は,自然の下にあって自然の恵みを享受して共生した縄文人に学ぶ必要があります。現代の危機を生きる私達は,1万年以上の長きに渡って生き抜いた縄文の人々の自然の中の神々を崇拝した崇万物という原点意識に帰る必要があると強く思うのです。

    令和5年5月10日

  立志学舎塾長 倉田榮喜