講座Ⅱ 空間・時間・人間

1 空間 

「色即是空・空即是色」の言葉は東洋にあり,「色」とは肉眼で見える天地間森羅万象を云い,「空」は肉眼に見えない物を云い「玄のまた玄」と云われ,「世界は循環変化の理にして,空は色を顕し,色は空に帰す。皆循環の為に変化せざるを得ず是天道なり。」(二宮尊徳一日一言)とされ,さらに仏教は,宇宙に存在する全ての生命体と物質は成住壊空(成劫・住劫・壊空・空劫)の四劫を繰り返すと説かれます。また,「天地人三才」という東洋の考え方もありますが,「三才」は造化の三つの位取りである「天」「地」「人」という造化の位相を表し,「造化」は万物生々化育という物を作る働きをいい,造化の三つの位相とは,理想・現実・実現,という三つの働きが無限に連続していくこととされます(東洋学発掘・安岡正篤著)。

地球に多種多様な生物(生命体)が存在し,人は,多種多様な生物が関連して存在することで命を繋いできましたので,多種多様な生物が少なくなれば人が命を繋ぐことは困難になります。天と地の間の空間には,肉眼で見える物であれ見えない物であれ多種多様な生命体の元となる物質を含み,空間の汚染は生命体を汚染してその種を徐々に減少させます。「成住壊空」や「色即是空・空即是色」は,宇宙と自然界の循環を顕していますから,自然の循環に因っても肉眼で見ることができる大地(山・川・海)の汚染は,肉眼で見えない空間の汚染となり,空間の汚染は万物を汚染させ,さらには自然のリズムをも混乱させて多種多様な生命体の種を減少させます。

大地と空間は,循環が繰り返えされるなかでの自然の浄化力によって清浄に存すべきものですが,この自然浄化力の限界を超えて万物の生命体に危険を感じさせる迄に空間を汚染させているのは,社会における人間の生産活動であり人間の消費活動です。天を理想とし地を現実とすれば,空間と大地の汚染を続ける現在の人間社会が永続きするわけがなく,万人が死に向かって歩むように,先進諸国の大多数の指導者と資本主義を信奉する多くの人々は,自然浄化力の限界を超える程の右肩上がりの成長を声高に叫んで,人類の滅亡に向かって歩んでいるのです。

皆さんには,「三才」すなわち「天(理想)」と「地(現実)」を結ぶ「人(実践者)」として,人類を含めた多種多様な生物の滅亡を阻止し空間と大地の汚染を防止する生き方を実践して,二度とない人生において,自然のリズムと共にある生き方を追及して欲しいと思います。皆さんは,「今」から身近に存在する空間が整理整頓されてまず周辺から清浄なるように務め,自然をも制圧できるという人間中心の考え方を持つのではなく,地球には多種多様な生物や鉱物が自然のリズムの中で共存し,人はその一種の生命体にすぎず,草木国土悉皆成仏の地球であることを求めて欲しいと願っています。

2 時間

「今」は,連続的な「時」の一瞬を示しますが,時と時との間を計る「時間」は,地球の自転と公転,宇宙の太陽と月の循環のリズムを計って,人が自然環境に適応しながら命を繋いでいくために作られたものです。人は,太陽が輝く昼間を活動の時間として獲物を狩り植物を育て,月が覆う夜を休息の睡眠時間として,次の世代に命を繋ぎながら現在に至りました。「今」という時の一瞬は,過去と未来をつなぐ瞬時で過去の時間と未来の時間が出合うことは決してないのですが,今は過去の一切の因が含まれる未来への出発の時なのです。時間は,過去から今までの時間の長さや今の瞬時から未来の瞬時までの時間を計り,皆さんの誕生の瞬時から臨終の瞬時までの時間を計ることができます。時は,地球の自然のリズムを計り,皆さんの二度とない人生の時間をはかります。皆さんの誕生から臨終までの時間は皆さんが持っている命の時間ですが,消費した時間を取り戻すことは不可能です。

空間の距離と移動の速度の関係で考えれば,兎は先行した亀を追い抜くことが出来ますが,亀が先行したという事実は変えることができません。したがって,皆さんは,出来るだけ早く自分の志を立てて出発する事が大事になるのです。貴方は,貴方が持っている命の時間を「今」何に使っていますか。貴方は,未来への出発にその命の時間を何に使おうとしていますか。また,持っている命の時間を他者に奪われて操作されていることはありませんか。皆さんは,自分が持っている命の時間をどのように使いたいのか,出来るだけ早く考える必要があるのです。

時と時を結ぶ時間の長さは客観的に同じであっても,その時間を何に使い,どのように使ったかで時間の価値は相対的です。主観的にも幼少や成長期の時間を長く感じ,老年期の時間は短く感じ,集中した時間は短く感じ,退屈な時間は長く感じます。さらに,資本主義等という社会体制の中で,情報収集力や労働対価の格差は時間自体の価値にも格差をもたらしています。そのような現実社会において,皆さんは時間の使い方とそのバランスを考えながら,自分が持っている命の時間を大切に使っているかどうか,社会や権力に搾取されたり,他者の操作で使われていたりすることがないように特段の注意が必要です。皆さんは,命の時間を地球の自然のリズムに合せ,時間の使い方として,自然の空間が清浄であるように務めながらも,自分の志を実現するために大切に計画的に使って欲しいと思います。

3 人間(じんかん)

動物としてのヒトは,その命を次世代に繋ぐ為に性欲と物欲を本能的に持っていますが,ヒトとヒトとで挨拶等を実践することで次第に殺戮や競争を避けるようになります。人は,人と人との間(じんかん)において,性欲や物欲を慎む為の「礼」を身に付けることで人間になることができると考えます。そして,礼は,人と人との間だけではなく,集団と集団,国家と国家の間においても重要で,付き合いの仕方や行事等の作法をあらかじめ決めてこれを実践することで,無用な感情の対立を避けて争いの発生を少なくすることができます。

礼は,人間社会において,個と個,個と集団,集団と集団の無用な衝突を避け,さらには国家間にとっても悲惨で残酷な戦争の発生を避けるために必須です。安岡正篤先生は「全体と部分,部分と部分同志が美しく調和されている状態を「礼」というのです。」(東洋学発掘)とされていますが,礼は「美しい調和」を導き出す役割を有することになります。人は,人間になっても性欲や物欲という生存的本能を維持し,さらに人間社会に生きることで名誉欲(存在欲)を持つようになりますので,礼を無用なものとすれば,人間(じんかん)や集団での競争が激しくなり諍いが頻発することになってしまいます。

集団の指導者が権力の地位や力を利用して,自分や家族の為に物欲の実現を計ることは許され難き悪業で,その悪業は子々孫々にわたって清算を求められることになると知るべきです。皆さんは,人間(にんげん)としての孝・仁・義・信・智の徳を事ある毎に磨きながら,これらを自身の徳として身に付くように日々に研鑽して欲しいと思います。人間(じんかん)で大切な「礼」を身に付けてこれを守り,さらに個人としての徳を磨いて,皆さんの二度とない人生を悠遊と生きて自分の志を実現して欲しいのです。

 九徳 近思録 書経(尚書)

1 寛にして栗(ゆるやかでいながら隙がない)

2 柔にして立(柔軟でいて,主体性がある)

3 愿にして恭(朴訥だが粗野でない)

4 乱にして敬(修羅場に強いが,慎むことを弁えている)

5 擾にして毅(一見やさしげだが,芯は強い)

6 直にして温(率直だが酷薄ではない)

7 簡にして廉(おおざっぱだが核心はとらえている)

8 剛にして塞(きかん気だが,単細胞ではない)

9 彊にして義(強く激しい気性だが廉潔漢である)

     令和2年8月15日

塾長 倉田榮喜

講座Ⅰ 賜命と使命

1 命の根源である種は,自然界でそれぞれが生きる環境に適合しながら多様な生物に分化成長して次の世代に命を繋ぎ,命を繋がれた生物の中から動物としてのヒトが出現し,ヒトは人となった集団の中で人間になります。人の命は,自然界で万物と共に与えられた命であり,人として祖父母代々の命の種を受け継いでいる命です。「賜命」は,人の命は自然界で与えられ造化された命であること,祖父母代々の命の性を受け継いだ命であること,を示すものです。人は,自然の摂理に抗してはならず,父母を始めとする代々の先祖に対する「孝」は,人の道の最初に置かなければならないと思います。また,「大孝」は,「太虚」や「太極」という宇宙根源の気に遡り,「造化」という万物を化育するという自然界の作用の本質を明らかにするものだと考えるところです。「流れてやまぬ劫流の唯中にしてこの命賜びたし」とされた森信三先生の「賜生」の語も銘じて欲しいと思います。皆さんの命は,「賜った命」であり,「賜っている生」である,ことを覚知して人生を生き抜いて欲しいのです。

2 賜命には,祖父母代々から受けついでいる「性」の中に「宿業」が刻まれており,人はこの命の業を背中に抱える火焔として人生を生きていくのだと思います。しかし,貴方のその宿業の火焔は,貴方に与えられた「使命」にもなるのです。皆さんは,賜って生まれた命の環境がどんなに酷い環境であったとしても,その環境から逃避することも隠蔽することもできないのですから,これを積極的に活かすことが人生です。この環境にどうして生まれたのかと嘆くよりも,この環境に願って生まれたのだとの誓いを立てて,環境にある課題を自分の使命とする人生を生きて欲しいと思います。貴方が背中に抱える宿業の火焔は,貴方の足元を照らし,貴方の分を明らかにし,貴方を輝かせる希望の明炎ともなるのです。人間としての偉さは,頭脳の良し悪しや功績の大小ではなく,二度とない人生の中で,貴方に与えられた自分の分を遣り切ったかどうかだと思いますし,他者との比較や嫉妬は人生のプラスにはなりません。貴方が賜命を使命と覚知して,自分の分を悔いなく果たし切って人生の臨終を迎えることが出来れば,それが貴方の最高の人生となるのです。

3 人は死後にどのようになるのかは,見ることも出来なければ証明することもできません。自然界に存する物質の総量が一定であることを前提にすれば,生物の命を形成した全ての物質は,その死によって自然界に往相して自然の気となると考えられますが,生物としての人の死も同じだと思います。命の死が自然の気に循環して往くとすれば,その命の気は生前の生き方に相応した気になるのではないでしょうか。人として命を賜ったのであれば人生で目指すべきは,悔いなき臨終であり,死後においては常楽我浄の気となって万物を爽やかにし,そして,自然の根源の力によって,いつかは人として環相出来ればと思います。しかし,しかし,人が人間を中心とする哲学を持ち続け自然も制圧できるとの考えを放棄しない限り,そう遠くない先に人類は絶滅してしまい,人として環相できないのではと・・・。

                          令和2年7月15日

                           塾帳  倉田榮喜

人生講座の開講


人は,人生で,生・老・病・死の四苦と愛別璃苦・怨憎会苦・求不得苦・五穏盛苦の四苦(四苦八苦)に直面するとされます。

皆さんが人生で自分の分を果たし,生老病死を喜びと受け入れて,四苦八苦も四喜八楽と受け止める生き方を求めるとしたら,人生の一日一日をどのように生きたらよいでしょうか。
人生講座で学ぶ事の意義は,貴方が自分の志を立てその目的を追求し,四苦八苦も四喜八楽と受け入れることが出来る自身の心を作り,自分の自と分を覚知して,その使命を果たせるように修学と鍛錬に努めるようになることです。
立志学舎の人生講座は,第一に動物であるヒトから人間となる作法を学び,第二に人間としての臨終をどのように迎えるかを考え,第三に人間としての生き方を研鑽するものです。

皆さんには,生きる為の食料を得る技能と智慧を磨き,集団の中で円滑に生きる為の礼法を身に付け,自身の才能を発揮する為の知識を習得し,環境の変化にも臨機に対応できるように心と体を鍛えて欲しいと思います。人生講座は,皆さんが持っている後戻りのできない限られた命の時間を,変化を続ける空間(くうかん)と人間(じんかん)の中で,人生で自分の分を果たして充足円満の臨終を迎えられるように学び鍛える場でありたいと思います。

人生講座の第Ⅰ講を「賜命と人生」として始めますが,第Ⅹ講の「自由と平等」まで時の変化にも臨機に対応しながら,人生を何の為に生きるのか,人生をどのように生きるのか・・・等を興に学び考えられることを願って講座を開始するものです。

令和2年6月15日
塾長 倉田栄喜