Archive: 2017.04

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法服の王国H29.4.28

国家の正義は統治者のものであって,統治者が判断する正義は被統治者への規制機能として作用し,秩序を乱す不正は刑罰や行政罰の対象となり,道理に反する不義は集団の多数者から反社会的な行為として非難されます。

それでは,正義は統治者だけのものであって個人の正義は掲げられないのか,否!

個人の正義は,時を経て多数の正義となりやがて国家の正義となる可能性を有し,個人において求める価値を追及する行動の規範となりますので,個人の正義を掲げることが必要なのです。

国家の正義が秩序や道理を守るという規制機能が強いのに対して,個人の正義は集団生活の中で個人が人生で求める価値を追及する行動の規範として重要な意義を持つものなのです。

では,その行動の規範として追及すべき個人の正義はどのような正義であるべきなのか。

皆さんに掲げて欲しい個人の正義は,自然の摂理の下で万物共生・相互扶助の生き方に適う正義であり,人々が長い経過のなかで共通の価値として築きあげてきた美徳や共通の善に基づく正義であって欲しいと願うところです。

この二つを基にする個人の正義は,可能な限り普遍の正義に近いものとして追求して戴ければと思うのです。

個人の正義が可能な限り普遍の正義に近づいて,普遍の正義に近い個人の正義が被統治者の多数を占めるようになれば,やがて国家の正義も普遍的正義となるのでは,と期待したいのです。

                  平成29年4月28日

                     塾長 倉田榮喜

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暴力と富と資本主義

国家において正義かどうかの判断権は,最後は武力(暴力)を独占する統治権者が持っているのが現実です。

憲法で中核価値とされる個人の尊厳は,自然権として憲法制定権者に正当性を与えるものですから,統治権者は個人の尊厳を最高価値として尊重するのは当然といえるのですが,統治権者が判断する正義の下で,国権が発動する戦争では個人の尊厳など簡単に無視された残酷な事実と歴史があります。

ではどうしたら統治権者の正義は,少数者も納得するより普遍的な正義といえるようになるのか。

その初めの一歩は,個々人が統治権者に影響を与えることができる個人の正義を持つことです。その為には人が持つ性欲・物欲・名誉欲も人生を生き抜く必要な生命力であることを認識しながらも,個々人において知性を習得し我欲や感情をコントロールする客観的自律を持って,普遍の正義を自分のものとする研鑽が必要になるのです。

国家の正義が統治者のものであっても,知性と客観的自律は個人のものです。統治権者に制限を受けずに読書や先人の生き方を学ぶことで知性と普遍の正義を身につけることができるのです。

知性は,知ったり,考えたり,判断したりする能力と言われますが,単なる知識ではなく我意や感情を抑制し例のない難事も逃げずに人生を生き抜く知力と智慧の基盤となるものです。

皆さんには,自分の自と分を知るためにも必要な知性を読書や先人等に学んで習得して,人生を生き抜く羅針盤として個人の正義を持って欲しいと願っています。

平成29年4月11日

塾長 倉田榮喜