Category: コラム

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中高生の皆さんは,「立腰」と「兀坐」いうことを知っていますか。

先ず,基本的な体の姿勢として,座り方も歩き方も立腰すなわち「腰骨立て」を出来るようになることが重要です。

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腰骨立ての方法は上図のとおりですので,坐るときも歩くときも,腰骨立てを意識して体姿を保って戴きたいと思います。

森信三先生は,朝起きてから夜寝るまでの間は,「いつも腰骨を立てて、曲げない」ことを第1の健康法とされ,腰骨立ては人が主体的な人間になる秘訣だとされます。一般にも,腰骨立ては,頭がはっきりして集中力と判断力がつき性根がすわり,体も丈夫になると言われているのです。

次に,「兀坐(こつざ)」です。兀坐は,岡田武彦先生が主導されるもので,「背筋を伸ばし、腰骨を立てて、目をつぶり、身体を静かに、ただじっと坐っていること」ですが,先生は兀坐するということは,「身を養う」「根を養う」ことであるとして「兀坐涵養」を説かれています。

岡田先生は,心の源は身体にあり,心を養うためにも身体をしっかりと養い育てる必要があり,「常住坐臥これ兀坐」と説かれるのです。そして,兀坐を説く基本を禅あるいは宗明学の心学に対して,「身の学、身学を根本」とすると説かれています。

最近,医学界で言われるマインドフルネス呼吸瞑想法を行うにも,兀坐は基本とすべき心と体の体姿です。

皆さん!立腰,そして兀坐,是非自然に出来るようになってください。

                  平成28年7月29日

                     塾長 倉田榮喜

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熊本城は地震で酷く傷つきましたが,築城400年を超える城姿はなお凛然と保たれ,その城姿に「静の行」としての「兀坐」を見る気が致します。

岡田武彦先生は,心の根本を身体とし,より根本の身学を修めることが,思想上哲学上の重要な要素となると説かれました。

岡田先生は,「物事は動から静が生まれるのではなく,静から動が生まれることを考えるならば、静に力を入れて動が活発になることを求めるのが本来の道筋である」とされ,静の行として兀坐を説かれたのです。

岡田先生の「ヒトは躾で人になる」との本を紹介しました。ヒトが人として支え合う社会で生きるために躾や礼が必要ですが,さらに大切なことは,自分の「自」を活かし「分」を果たして行くための「自律」を持つことが肝要となります。

自律の意味についてよく深めて戴きたいと思いますが,簡単に言えば他からの支配や制約を受けずに,自分で立てた規範に従って行動することです。

例えば,自分で①命を痛めないこと②嘘をつかず正直であること③挨拶を先にすること④責任を他に転嫁しないこと⑤日々の計画と反省を行うこと等の規範を作り,その一つ一つの規範それ自体を目的とし継続して実行することです。

皆さん!兀坐を日々に実践して身を修め,自分で作った規範でそれ自体を目的として実行する自律を持ってください。

                  平成28年8月10日

                     塾長 倉田榮喜

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寺田一清先生は,「森信三先生随聞記」で森先生の「家庭教育におけるしつけの三ヶ条」を紹介されています。

 (一)祖父母や両親に対して,朝のあいさつの出来る子に。

 (二)祖父母や両親に呼ばれたら,「ハイ」と返事のできる子に。

 (三)脱いだハキモノを揃え,立ったら椅子を机の下におさめること。

中高生の皆さんで,この「しつけの三ヶ条」が身に付いていない人は,今からでも自意自得して身に付けなくてはなりません。

立志学舎は,「孝」を基本理念の一つとしますが,上記(一)と(二)は,躾の問題に止まらず,子の親に対する向き合い方の根本を所作として具体化するものなのです。

子は,親を乗り越えていくなかで大小様々な葛藤があるのは当然だとしても,心の根底には親に対する「恩」と「感謝の気持ち」を持ち続けなくてはなりません。親や祖父母は生命の源であって,「太虚」と「大孝」に通じるからです。

そして(三)は,自分の体姿を保ち自律の一歩として重要です。

ハキモノを揃え,立ったら椅子を元に戻すことは,自身の心を揃え物事を整理する自律的な所作なのです。この所作も必ず身につけて欲しいと思うのです。

寺田一清先生から,森信三先生の時間・空間・人間(ジンカン)の三間(サンカン)のお話を戴いたことがありますが,(三)は,時を守り, 場を清め,礼を正す,という自分自身の自律を実践して行くために基本的な所作なのです。

平成28年8月31日

                     塾長 倉田榮喜

 

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自然に存する親は,何処でも何時でも懸命に子の命を守り育てることで,根源の価値が「種の尊厳」に在ることを示しています。

その価値は自然界に生きる全ての種に在り,その自然界は人類のものではなく,人は人だけでは命を繋ぐこともできないのです。

自然の摂理は,万物に適用される根本規範で地球に存する「生命の種」を次世代に循環させる自然界のリズムです。

横井小楠翁の「天理は万物の和にあり」との言葉のように「万物の和」を創造する根本の規範ではありますが,人類を中心にする規範では決してないのです。

皆さんの命の誕生を,両親,祖父母と遡れば,その究極の命は根源の種としての生命体となり,この根源の生命体が自然の摂理の中で生成されて,今日の皆さん一人一人の命となっています。

私は,人の生命を根源まで遡ることを「大孝」としますが,大孝は人類の命とエネルギーの根源を意味し,種の尊厳を根源の価値とすることにつながると思う一人です。

人類を含む全ての生命体は,自然の摂理に抗することはできないのですが,それは,自然の摂理が万物の和を創造し,生命の種を次世代へと循環させているからにほかなりません。

自然の摂理において,植物が種から苗となり実をつけその実が種となることを繰り返すように,人生においては,幸せの種としての「善」を播き続けることが大切だとも思うのです。

ところで,皆さんが心に思う幸せの種とは何ですか。立志学舎で与に学ぶことができるように願っています。

                   平成28年9月10日

                     塾長 倉田榮喜

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19人死亡,27人重軽傷という本年7月の相模原殺傷事件について,「なぜ人を殺してはいけないのか」の答えを示して考えを述べます。

自然界の根源の価値は「種の尊厳」と考えますが,人が人を殺すことは,他者の存在とその種を否定し,人類という種の滅亡にもつながる自然の摂理に反する行為ですから,いけないのです。

人は相互に支え合う社会集団の中で命の営みを行いますが,人が人を殺すことは,人の命の営みの基盤である社会集団の秩序を崩壊させる集団の正義に反する行為ですから,いけないのです。

人の命を代々に遡れば,根源の種である生命体に辿り着き,その生命体が現在の全人類の命につながっています。故に人が人を殺すことは,自身にもつながる命の種を傷つけ,子孫にも余殃を残す孝に反する積不善の行為ですから,いけないのです。

不具合を持って生きることは世の中に不幸の種をまき,関係者を苦しめるだけ等の優生思想は否定されなければならず,これを導くような功利主義も否定されなくてはならないと思います。

自然の摂理は,命の種を次世代に確実に受け継がせる方法として,個々の命に多様な種としての遺伝子を秘めさせているのです。

犠牲となった人も,他の人に代えがたい種の遺伝子を持って,社会という集団のなかで果たすべき「分」を担っていたのであって,社会に生を受けて存在する理由があったのです。

人が人を殺すことは,殺される人の社会での分を奪い,命の種を断絶させる極悪の積不善の行為であることを,強く深く自覚して欲しいと思うのです。

                  平成28年9月30日

                      塾長 倉田榮喜